2017年8月16日水曜日

お盆の墓地にも、どうやら人気の上下はあるらしい



8月15日、実家の墓参にいってきた。自分でもすっかり、エラいなあ、やればできるじゃん、と思ってしまう。それほどルーティンに弱い、なまくらである。



ひとり留守番をさせるのを気づかって母親が握り飯をいくつも握り、紐をそれに通して念珠のように息子の首にかけてやって出かけて帰ってみたら、ただ首を動かせば食べられるアゴのまわりのところだけを食べてほかは残し、飢え死にしていたという「ものぐさ太郎」に激しく共感するのである。



とうぜんご先祖さまの魂につながるというようなお墓の便利な機能を信じているわけもなく、両掌を合わせたフリをして目はキョロキョロと辺りを見回し、カラスと視殺戦を繰り広げたりしている。もちろん念仏など憶えているはずがない。



そういえば自慢ではないけれども、生まれてこのかた校歌というものも1度も憶えたことがない。卒業生を送り出すときも新入生を迎え入れるときも、ただ皆の声に隠れるようにして「ホー、ホー」と吠えていた。なぜ「ホー、ホー」かというと、これが「ア」行の音の次に発声がラクだからである。「ア」行だと並んでいる列を替えられる可能性がある。



恥ずかしながら自分の結婚式もまったく憶えていないのである。なにをまたテキトーなことを、といわれるかもしれないけれども、ほんとうにまったく憶えていない。呆れられようが激怒されようが、憶えていないものは憶えていない。



あの、2次会だの3次会だの、式場入りから数えればゆうに半日はかかる長丁場を、私はどのようにしてやり過ごしたのであろうか? なんだか健気でエラくさえも思えてくる。こんな私が、まして血族とはいえ人さまの弔いごとをや。ああ。



儀式的、形式的なことが退屈で耐えられないのである。なので、はなはだ不遜ではあるけれども、毎年この時期に行われる合同慰霊祭というようなものにも出席するつもりはまったくない。亡くなった方々を悼むのは1人きりの胸のうちでも十分にできる。



合同慰霊祭などが行われるのはそれがデモンストレーションでもあるからだ。戦争反対や平和維持、そうしたことをこんなに大勢の人が願っているのだ、とアピールする意味がある。誰に? あ、お互いにその気持を確認するのね。



お話は少し逸れるけれども、今年の終戦記念日前後のテレビニュースを観ていると、慰霊祭だとか、甲子園での黙祷だとか、どこかでの記念写真展だとか、ああそれから靖国神社のようすだとか、つまり二次的なニュースが多かった気がするのである。



戦争そのものに迫った番組は少なかった。たとえば南方戦線の日本軍はどのように指揮されていたかについて最近になって分かってきたことも多いというのに、それらについての報告は私の知る限りではなかった。



これで戦争体験を風化させてはいけない、次の世代に語り継いでいかなければならない、と語る老人の姿ばかりをニュースとして見せられると、腹の底がムカムカしてくる。このニュースを送り出しているお前こそ少し語り継げ、といいたくなる。



戦争の過去を直視しない、戦争の事実が少しづつないがしろにされてきている、という実感がある。黙祷のようすを映し出すのもいいけれども、白兵戦の生々しいドキュメント映像を見せられるだけでもずいぶん考えることはあると思う。



そういえば沖縄戦を舞台にしたメル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ(Hacksaw Ridge)」(2016)の公開が夏前の6月だったというのも、たぶんそんなありがたい思いやり、おっと間違いた(by荒木経惟)、忖度のたまものなのであろう。



それは置いておくとして、またまたイヤなヤツなのであるけれども、そもそも私は人の群れを信用しない。1人ひとりはまっとうな人間なのに、蒸れる、おっとまた間違いた(by荒木経惟)、群れると途端におかしくなる。



ふうん、と鼻で笑っているあなた。あなたにもいつか必ず群れから離れるときはくるので、そのとき外側からしっかり観察してみるとよろし。いままで自分が属していた群れの常態に、いかに多くの誤摩化しや欺瞞が紛れ込んでいたかがおわかりになるはずだ。もしそれを人間社会の宿痾、さらに必要悪などといって肯定するならば病膏肓である。それは社内外のどこかを必ず歪ませている。



そんなふうに思うところがあって、人が集まるところにはほとんど出かけない。で、ほぼ単独で生きているうえにルーティンに弱いなまくらであるから、だんだんとなにが形式的で形式的ではないのかわからなくなる。



形式(form)をつくっているのはカタチであり、そのカタチに内実が認められなければ、それはカタチにこそ意味がある形式である、ということになる。つまり形式的であるかないかは自分で決めないといけない、というものスゴーくあたりまえのお話である。



ものスゴーくあたりまえではあるけれども、それには意味があるのかないのか、いちいち自分で考えなければならない。面倒くさいし、同じ事柄であってもときによっては意味が理解できたり、まったく無意味に感じられたりするので、終りというものがない。



たとえば、私にいわせていただければつまらない形式の大集合みたいなお盆の墓地である。そこの四阿に座っていたときのことだ。三々五々、お参りに訪れる家族連れなどを見るともなし見ていた。



今年はいつもよりずいぶん人が多いなあ、きっと例年の2倍くらいの感じはあるよなあ、と思い。さらにその1人ひとりの面持にいつも以上に厳かな印象が漂っていたのに気付いたのである。心なしか身に着けているものさえきちんとしたものが多かったような気がする。



それは2011年の夏のことであった。私の実家の墓地はあの東日本大震災の被災地からは遥かに遠く離れて東北地方ですらないのであるけれども、訪れる人々の変化は明らかだった。



その年、きっと久しぶりに先祖の墓を訪れた彼らは、先祖の魂の安寧ばかりでなく、おそらく東北で犠牲になられた方々、ご遺族のことなど、それぞれさまざまなことを祈ったのであろうと思う。よく晴れた暑い陽射しの下に、穏やかでしかし輪郭のはっきりした信仰の空気みたいなものが広がっていた。



あれから6年目の今年の墓地では、たぶん11日からの連休を利用して訪れた方が多かったのであろう、人影は案外少なく、しかしほとんどの墓に供花が彩りを添えていた。



死者たちの前では誰もが孤独だ。(了)





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