2015年2月23日月曜日
来る夏(ショートストーリー)
コウタは思わず足踏みをしました。夕方になっても衰えない陽射しの強さにげんなりしてしまったのです。遮るもののない一本道の両側には、見渡すかぎり砂糖大根の畑が黒く伏しています。その陰、まるで大地の下から現れたようにカラスの一群が飛び立ちました。
〈ひぃーひぃー〉という音がします。耳を澄ますと、突き当たりの山裾の暗がりから、人の泣き声か梢を渡る風のような不気味な音色が伝わってきます。コウタは背中のランドセルを撥ね挙げました。
(急がなくちゃ。そうじゃないと、あの音の正体と鉢合わせをしてしまうかもしれない)
脇道へ駆け抜けようと全力疾走するコウタと音はぐんぐん近づき、遂にたまらなくなったコウタは水のない用水路に滑り降りました。音は厚みを増し、行進曲や歓声や拍手だとわかります。それから別の音楽が加わり、動物の鳴き声や演説のような声も聞こえます。
音が空気を震わすほど近く大きくなったとき、恐る恐るコウタは顔を上げました。積み荷を満載した満艦飾の巨大なトラックが何台も街のほうへ向かいます。真っ赤な文字は〈雅笠サーカス〉と書いてあるようでした。
列の中ほどのトラックの屋根に燕尾服の男が仁王立ちして、両腕を水車のように回しながら叫んでいます。
「日本一は東洋一、東洋一は世界一、世界一は宇宙一、宇宙一は金輪際から有頂天……」
よく見ると男は人形で、万国旗の上に突き出た四角い顔が大口を開けて笑ったままです。
コウタは少し頭がくらくらしました。
「明日から役場前の広場ではじめるよ!」
トラックに乗った二輪馬車から甲高い声がしました。子どものような体ですが山高帽を被り、立派なカイゼル髭まで生やしています。小旗に〈団長〉と金色の刺繍がありました。
「なんでもタダだから、ぜひいらっしゃい」
しばらくして我に返ると、すっかり夜が更けています。辺りは真っ暗です。虫達が鳴き、夜露の匂いがします。
あっ、とコウタは叫びました。
(キツネだ。キツネに化かされたんだ)
道路に駆け上がり、トラックの行列と満月を背に、家をめざして一目散に走りました。
翌朝、小学校へ向かう途中でコウタは目を丸くしました。役場の前を水玉模様や縞模様が埋め尽くしているではありませんか。巨大なテントが幾張もそびえ、その周りには露店が軒を連ねています。心浮き立つ音楽が流れ、おいしそうな匂いも漂ってきます。昨日までそこにあったはずの駐在所や組合や郵便局はどこにも見当たりません。
コウタは大急ぎで引き返しました。
畑の作業場に着くと、いつも先に仕事に出ている父さんと母さんが休んでいます。
「こんな田舎の村でも引けはとらんさ」
父さんは上機嫌です。
「サーカスに驚いたのかい?」
コウタを見つけた母さんが、めずらしいお菓子を頭の上にかざしていいました。そして昨日の夜更けから今朝まで、村中が総がかりで準備をしたのだ、と説明しました。
「サーカスだぞ。……突貫工事だったけど」
コウタの目を見詰めて父さんがいいます。うっとりとした、はじめて見る顔付きでした。
「小学校はしばらく休め」
それからの約二週間をコウタは夢中で過ごしました。雲から降りてくる巨人の足、空中を泳ぐ魚と水中を飛ぶ鳥、いろいろな人種の子ども達、ポンプ男、世界一の美男美女、月ロケット、桃太郎型フルーツパフェ、大砲まで飛び交う騎馬戦……。どれもこれも楽しく面白く、しかもお金はかからないのです。
そのうえコウタは恋をしてしまいました。相手はキャンディを配って歩く着物姿のサーカスの女の子です。初恋でした。
村中が遊びに熱中しました。大人が急に子どもに戻ってしまったようでコウタは戸惑いましたが、本人達はいつもと変わらないと思っているようでした。ともかく、ものわかりがよくなったのは嬉しいことでした。
村一番のお金持ちのいうことは誰も聞かなくなり、お年寄りは口々に「死ぬ気がしない、いついつまでも、死なない! 死なない!」と唄い、家族は次第に離れ離れになりました。コウタも父さん母さんとはぐれてしまいましたが、いつでもタダで好きなものを食べられ、学校も休みで寂しがる暇さえなかったので、とくに困ることはありませんでした。
小学校のおじいちゃん先生が世界一の美女と駆け落ちをしても、組合の事務所が焼けても、演説大会で村長が喉に水を詰めて死んでも、誰も気に留めませんでした。みんなの関心はもっぱらサーカスに向けられていて、自分の周りのことには無関心になりました。
ある雨上がりの夜、コウタは一息いれて涼もうと、役場の横の神社に上りました。
鳥居をくぐると先客がいます。あの小さな髭の団長とキャンディ係の女の子です。青色の長いドレスを着た女の子は鎌の刃のように鋭い月の下で団長と抱きあい踊っています。
コウタの気配を察した二人が立ち止まり、ゆっくり振り向きました。階段下の街灯に照らされて、確かに団長とキャンディ係の女の子には違いありませんでしたが、しかし朽ちかけた老人でした。皺の奥の目のあるべき場所には黒い丸い二つの穴がぼっかりと開き、胸元で握りあった拳は丸めた渋紙のようです。
コウタはぶるぶる震えました。それでも考えていたことをはっきりといわなければいけないと気持を奮い立たせました。
「これは本当のことだよね?」
二度、三度、繰り返して聞いても二人は答えません。
「……本当のことはもう全部嘘なんだね。嘘が本当になっちゃったんだから」
コウタは声を上げて泣きました。真正面に小さな二人が並びます。そして厳かに気をつけの姿勢をしました。
翌日、雅笠サーカスの一団は村を去りました。しかし離れ離れになった家族が元に戻ることはありませんでした。コウタも近所の人達に助けられながら一人で暮らしています。村では、いまは誰もサーカスの話をしません。団長が、みんなに忘れられたころにまた来るというような挨拶をしたからでしょうか。そのかわり、ときどき、そっと隠れるようにして思い出し笑いをするのです。
それからまた眠くなるように静かな、長い長い時間が流れました。
屋根の上で鳴き交わしていたカラスが山に帰り、通夜の番を残してみんなが立ち去ったあと、コウタの家は静かです。どこからか〈ひぃーひぃー〉という、人の泣き声のような梢を渡る風のような音が聞こえています。 (了)
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