2017年1月21日、俳優の松方弘樹が亡くなられた。享年74歳。たぶん多くの方々には、2016年2月に入院されてそのまま逝かれたという感じがあろうと思う。もちろん手を尽くしての治療と闘病があったはずではあるけれども、本人と看護にあたった方の希望であろう、それらはほとんど伝えられていない。俳優という夢を売る仕事に就いた者の矜持である。謹んでご冥福をお祈りする。
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考えてみれば、むかしはみんなこんなようすだったような気がする。病院というのは地獄の審判所みたいなもので、そこで医者が「助かる」といえば助かるし、「難しい」といわれれば覚悟を決める。そんな感じの場所だというイメージがある。ジジイだもんでのう。あのころは子どもじゃった。
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死者に対しても、ああもう会えないのだと惜しみ悲しみはするけれども、いってしまえばそれまでである。ほとんど家族・親族以外の者にとっては誰が死のうと簡単なものだ。マルセル・デュシャンがいったように、死ぬのはいつも他人だけ。それにもともと「死」についての想像力というものはなかなか発動しないようになっているのであろう。
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そういえば梅宮辰夫(78)が松方弘樹の遺骨を前にして「人間ってこんなに簡単なのかとつくづく思った」と慨嘆したと伝わっている(デイリースポーツオンライン・2017年1月24日配信)。それには命の儚さへの嘆きと同時に、遺された者にとっての「死」のこうした取りつく島のなさみたいなものが込められていたように思う。
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であるから親しかった者の「死」を実感し受け容れ、心に落ち着かせるために葬儀があり、何回もの供養がある。今日びもっとも儀式が儀式らしくその機能を働かせる場所が葬儀、供養である。
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日本はすでに2011年ごろから多死社会(!)に到っているわけで、これからはどんどん人が死んでいく。2015年には約131万人であった年間死亡者数が2020年には約143万人、2025年には約153万人と右肩上がりに増えていく(国立社会保障・人口問題研究所「招来推計人口」平成24年1月推計)。1942年生まれの松方弘樹のすぐ下には団塊の世代が控えているのである。
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たぶんいま原稿を書いているこのパソコンにも、ネットから「死」が続々と入り込んでくるであろう。死にそうな人の情報も、人が死にそうだという情報も入ってくる。そうすると「死」はたぶんますます簡単なものになっていくのだと思う。
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実際、遺体とともに火葬場へ行くと「全骨拾われますか?」と尋ねられる。ここで「いいえ」と答えると喉仏の骨などだけを手元に残して、残りの遺骨はカラカラカサカサ、ゴソッとまとめて捨てられる。西日本で伝統的に行われている全体の3分の1、あるいは4分の1くらいを持ち帰る「部分収骨」とはまた違うお話である。
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とにかく全骨をいちいち箸渡しして骨壷に納めているヒマなどないのだ。後がつかえている。火葬場によっては遺骨をまったく持ち帰らなくてもかまわないところまで出てきている。宗教学者・島田裕巳(63)はそれを「0葬」と名付けたのだそうだ。そのうち葬儀から遺骨の供養までワンストップでできる場所が増えるに違いない。
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送るほうはそれでいいとして、なかにはもう少し大騒ぎして死にたいと思う方々もいらっしゃるに違いない。働くだけ働かされて死んだら黙ってとっとと消えてくれ? そんな殺生な、というか死んだら黙っているに決まっている。働けなくなったら黙って消えろ? そんなことでいいのか? 恨みごとのひとつやふたついってやりたくならないのか? せめて人生の最終カーブ、まだここに生きていると大音声でよばわりたくはないのか?
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いやいや明鏡止水、すっかり晴れ晴れとした気持で家族同僚親戚友人知人先輩後輩彼女彼氏に感謝を述べ、ついでに病気のようすなども淡々と記録しておきたいと考える方もいらっしゃるであろう。そういう方々がブログなりSNSで発信する。
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うむ。闘病記の大洪水である。そのひとつひとつ死に方の手本、闘病の見本という読み方もできることになる。地獄の審判所みたいな病院の具体的な中身も少しづつ明らかになってくる。実際に大きな病を得たときには、どなたか先達の闘病記がたいへん役に立つ、という話を聞いたことがある。
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実際に闘病記ばかりを集めたネット書店もあった。「パラメディカ」といったけれども昨年4月に店主が亡くなりいま現在は休業中らしい。世の中には有名無名に関わりなく驚くほど多くの方々の闘病記が遺されているらしい。これは後世の役に立つ。
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であるからDeNAも医療系まとめサイト「WELQ」などといういかがわしいものの代わりに闘病記専門サイトを立ち上げればよかったのである。2ちゃんねるに負けないように工夫して。あ、たぶん金にはならないからダメか。とにかくそういう「病」や「死」の情報が氾濫していく。
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もちろん「死」に対する考え方はみなそれぞれであり、先ほどの松方弘樹の話にしても、なにも俳優だからといってみな人の目を忍ぶようにして死んでいけ、といっているのではない。一般人と同様に、取り乱し、大騒ぎしたってそれはそれでかまわないと思う。
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しかし有名人の場合やっかいなのは、というか面倒くさいのはここに「ファン」と「金」が絡んでくることである。たとえばアメーバブログを開設して闘病のようすを公開したとしよう。大勢のファンがそこを訪れてくれるだけで、有名人の場合は運営からギャラが入る。
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具体的には、市川海老蔵(39)の場合は年間3000万円にはなっているであろうというお話も聞いたことがある(週刊女性PRIME・2016年11月16日配信)。たぶん小林麻央(34)のブログも同様の数字を叩き出しているのであろう。
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であるからゲスな話ではあるけれども、金のために闘病記を書く、書かせられるという事態もたぶん起こりうる。もし仮にそういうことであっても否定はしない。「ファンからの応援がなによりの励みになるから」といわれればおおいにその通りであろうし、病気の治療には金がかかる。なんだか少し怪しい看護日記というのは困るけれども。
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ただひとついいたいのは、それを自分の「作品」だとは考えていただきたくないということである。俳優は演技が、歌手は歌が本業であって、それ以外に自分がファンに何かを与えられるなどと考えるのは、やはり思い違いだと思う。ここを踏み外してしまうとそれまでに重ねたキャリアも栄光もすべてダメにしてしまう。
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極端な例には、以前にも書いた森光子(享年92)の場合がある。死ぬまで舞台に立ちたい、舞台の板の上で死にたいという気持ちはわかるけれども、それで果たして観客に納得のいく芝居を見せられたのであろうか? 時間を割き、劇場まで足を運び、金を払って見る価値のある芝居ができたのであろうか?
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たとえ観客が「あー、今日はもうでんぐり返しができなくなっていたわね。ほんとうに光子さん頑張ったわね。感動したわ」と満足したとしても、その観客が見たのは完全な「放浪記」ではない。ファンとの別れを惜しみたいのであれば芝居の舞台ではなくまた別な場所を用意すればいいのである。俳優としての意地や決意が大切な作品の価値を貶めているのである。
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末期の胆管癌でほとんど骨と皮だけになりながらミュージカルに出演して若い女の役を演じた女優もいるけれども、それは、たいへん申しわけのないいいかたになるけれどもエゴイズムでしかない。そんな半端なものを見せられる観客はたまったものではない。容色衰え必要十分なパフォーマンスができなくなったらその時点でその作品からは引退すべきだと思う。厳しく聞こえるかもしれない。しかしそれはどんな職業にもあたりまえにいえることだ。
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井上公造(60)が、昨日このブログでとりあげた江角マキコ(50)の洗脳を疑う記事のなかで成宮寛貴(34)のケースも取り上げ、今年は“引退宣言”がブームになるかもしれない、というようなことを書いていた(AbemaTIMES・2017年1月24日配信)。しかしそれよりも確実にやってくるのは“闘病”、“死亡”ブームである。ブームなどと大きな声では憚られるけれども、“引退宣言”よりもよほど確実な引退である。これから芸能ニュースに確実なシェアを占めていくはずである。
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そしてそういう流れのなかであってもやはり1人ひとりの「死」はその重さを失っていく。松方弘樹の追悼番組をNHKでやると聞いて(「ファミリーヒストリー」2017年2月2日放送)、ああ追悼番組というものもあったのか、と気付いたくらいなのであるから。
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ああ、そうだ。死んだあとのいろいろな整理をしてもらう成年後見人制度に申し込んでおくのを忘れておった。恥ずかしいあんなものこんなものを面白半分に人目に晒されてはたまらぬ。ハードディスクは物理的に破壊、厳重に要望しておかねば。(了)
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