世の中にはほんとうにいろいろな人がいて、いろいろな世界があり、宇宙がある。街を歩けば異なる宇宙がすれ違う。しかし一人ひとりが直接知っているのはそのごく限られた一部に過ぎなくて、たぶんその他の大部分についてはそこに存在していることにさえ気付かないまま一生を終えてしまうのである。と思う。そういう私とは異なる宇宙に棲む人のお話である。
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実在の人物なので「彼」ということにさせていただく。仕事の打ち合わせのために待ち合わせをして早く着いた私がコーヒーを頼み、ふとその店の入り口を振り返ると「彼」が相撲の四股のような格好で床を踏み固めていた。
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「1日に10回はやらないと気が済まなくて」
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「彼」とはあくまで仕事を通してではあるけれども5年以上の付き合いで、ほぼ半日ほども一緒にいたこともある。しかしそんな姿にはついぞお目にかかったことがなかった。意外である。というか可笑しい。
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「股関節を柔らかくしておくと体全体の調子がいいんですよ」
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このごろは中高年のあいだで股割りみたいな股関節ストレッチというのをやる人が多いらしいですね。しかし「彼」はもう10年以上もそれを寝起きのベッドの傍らで、リビングで、事務所で、浴室でやっているというのである。
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で、もともと腰が悪い彼は四股のほかにもいろいろな治療や対策を実践してきていた。なかでも効果があったのは「尾骨の矯正」だといった。
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「お尻の穴から指を入れてパチッと」
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肛門から指を挿し入れて「パチッ」と尾骨を動かすのだそうである。ずいぶんダイレクトなやり方である。その瞬間に全身に電流が走ったような衝撃があり、長く悩まされていた腰痛がすっとラクになった、というのである。指はずいぶん深く入れるらしい。どっち方向にどう動かすかなどということは瞬間の“パチッ”であるのでわからないという。風俗店などでやると噂の前立腺マッサージとはやはり違うもののようである。
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で、彼の話によるとこの術を施せるのは日本に2人しかいなかったのだけれども、そのうちの1人は手を怪我してしまって、いまは1人だけになってしまったそうだ。2人は“アメリカでカイロプラクティックを開発した先生の直弟子”なのらしい。そういういちおうの説明もないままに「お尻の穴から指を入れて」というので、思わずこちらの頬が弛んでしまうのである。
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あとで調べてみたらカイロプラクティックに肛門経由での尾骨矯正という技はちゃんと存在していた。私にとっては産道を拡げるためにするといわれる膣マッサージに匹敵する衝撃であった。ああ、そういえば子どもができない夫婦が病院に相談に行ったら、いきなり旦那の肛門に指を突っ込まれたというお話もあったっけ。
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ただしカイロプラクティックが創始されたのは1895年のことであるから、“カイロプラクティックを開発した先生の直弟子”というのはたぶんなにかの間違いであろう。
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「背骨や首もブツブツいいながらやるんですよ。小さい声で。いまどこそこを飛んでいるとか。おー、きたきたとか、おー入ったとか」
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飛んでいるというのはUFOが、である。ユッフォー。そしてその施術者はそういうUFOをよく見知っているお仲間たちとなんらかの方法を使って交信しながらカイロプラクティック治療に励んでおられる、と。まじっすか?
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「UFOはもうあたりまえですよね。けっこうたくさんいますよ。UFOの中に2回入ったという人もいます」
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あらららら。なにがたくさん? UFO? それとも見たっていう人? 交信ってどうやって? もう少しだけでも具体的にお話を伺いたいと思うのであるけれども、「彼」はいつもそういう具体的、説明的なディテールは飛ばしてしまうのである。もちろんそこを根掘り葉掘りしたいのはやまやまである。しかし仕事の打ち合わせ前なので、あまりしつこくかき口説くわけにもいかない。
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「私も宇宙人と食事をしたことがあります」
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うわっ出た、と思ったのである。やっぱりいいです、話すのであればそういう胡散臭いお話は止めてさっきの肛門カイロプラクティックに戻りましょうよ。
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「高木さんという宇宙人で、高木さんの体を借りて地球で暮らしているといってました」
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????、それじゃほんとうの高木さんはいったいどこへ?
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「高木さんが交通事故で死んだ瞬間にスッと……」
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体内に入ったというのである。ジャック・フィニイ(享年83)のSF小説、『盗まれた街(The Body Snatchers)』である。ボディスナッチャーである。不気味である。知らないあいだに宇宙人と暮らすことになった「高木さん」のご家族はいったいどうすればいいのであろう?
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しかし「彼」がいうには宇宙人「高木さん」の話はどこからどう突ついても破綻がなかったというのである。で、「彼」本人もウソをついているようすには見えないし、無頓着なのか「だいぶむかしのことで細かなところは忘れましたけど」というし。
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「もうそうやって暮らしている宇宙人はたくさんいるらしいです」
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こうなってくると巷間さまざまにいわれる「宇宙人地球侵略説」だとか「宇宙人移住説」だとかのお仲間の感じである。ちなみにその「高木さん」は某有名企業の取締役だった人だそうである。
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「人間には基本的には男と女の2種類の性別しかないですよね。でも、『高木さん』のところは8種類もあって、すると進化のスピードがすごく速いというんです。これにはナルホドなと思いました」
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つまり「高木さん」のところでもやっぱり生殖行為は1対1で行われるらしい。そうして生殖行為がいろいろな組み合わせで行われるほど、環境によりいっそう適応した個体が、より早く生まれてくる可能性が高い、ということらしいのである。
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ほんとうか? 性別、性差だけバリエーションに富んでいても、それがすぐに適応や種としての進化の速さに結びつくのか? 9番目、10番目の性を産み出すだけではないのか? 負けずにバッコンバッコン頑張ればとりあえず2つの性でも適応のスピードでは負けないのではないのか?
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その日、実は昨日なのであるけれども「彼」は自分の健康状態についてよく喋った。水出しコーヒーについてくるオマケのチョコレートケーキを食べながら「こんなの1年に1個しか食べられないこともありました」、「でもスゴいもんです。1ヵ月で4キロ痩せましたから」。食餌療法ですか? 健康にはずいぶん気を配っているようなのに、なにが原因でそんなことに?
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「子ども用のジキニンシロップを2本飲んで、それからユンケルのいちばん高いヤツを飲んで熱い風呂に入ってすぐ寝るんです」
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風邪を一晩で治す方法だと知り合いに教えてもらったのだそうである。
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「ほんとうに治ります、一晩で。朝起きたらバッチリ、スッキリです」
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で、調子にのってそのまま海外へ出張して現地の取引先とパーティというようなことを繰り返しているうち、内臓器官にさまざまなダメージを負ってしまったそうなのである。「体調はそこそこよくないほうがいい」というのが「彼」の結論であった。
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この小児用ジキニンシロップ+栄養ドリンクという風邪退治の荒技は、調べてみるとそうとう以前から一部ではよく知られていた方法らしい。しかしだからといってそれで安全が保証されたわけでは決してないので真似はおすすめできない。
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では彼の話がどこまでほんとうなのか? である。これまでにはここにご紹介した以外にもたくさんのびっくりぽん話を聞いた。たとえば使い終わった割り箸で自家製ハチミツをすくい取り、それでいきなり目玉をゴシゴシ洗うとくもりのベールが剥がれたように視野がパッキーンとする、とか。
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あ、そういえば「吸玉療法」事件というのもあった。「カッピング療法」ともいって、背中などにカップ状のものをいくつか置いてなかの空気を抜き、血液を浄化し、血行をよくしたりするというものである。スポーツ選手の背中に丸い痕が残っている場合があるけれども、これである。
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「彼」はある獣医師に動物用の機械を使った「吸玉療法」を施され、結果あまりに強力に吸って吸って吸いまくられたので、6つ使ったすべてのカップの中程まで血が溜まったというのである。
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「もうケロイドですよ。痛くて痛くて……。家族には叱られるし、さんざん」
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血はどこから出たですか? 緊張するとワケのわからない九州訛りが出る。
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「毛穴でしょう。背中なんで見えなかったですけど」
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家畜用の「吸玉療法」はまだその獣医師による実験研究段階だったのである。恐ろしい話である。ざっくり調べたところ家畜用の「吸玉療法」あるいは「カッピング」という記述はネット上どこにもないので、この試みは失敗に終わったようである。おお、お手軽簡単な吸玉・カッピングのツールは楽天でも売っておる。
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ふつうは動物実験で安全性を確認してから人間を対象にした臨床試験へという流れだと思うのだけれども、「彼」の場合はその逆をやらされたわけである。そして「彼」は背中のケロイド状の傷のために、その後何ヵ月間もうつ伏せで寝なければならなかったのだそうである。
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九州といえば九州のある山の中に2.26事件に関与した男がひっそり匿われていた、という話もあった。毎年決まった時期に保守系の超大物政治家がわざわざ彼を尋ねてやってきていたそうである。彼はその地で生涯独身を貫き、ついに数年前、世間から隔絶したまま亡くなられたという。2.26事件から今年で81年、あり得ない話ではない。
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2.26事件で陸軍教育総監であった父・渡辺錠太郎(享年61)が殺されるのを目の当たりにした9歳の少女、のちのノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんが亡くなられたのは「彼」からその話を聞いた約1年後、2016年12月30日のことであった。享年89歳。「彼」の話を聞いたとき、もしその匿われていた男と渡辺さんが対面をしたならいったいなにを語り合うだろう、とたいへん不遜な想像をしたことを憶えている。心よりご冥福をお祈りする。
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「ほら、2.27事件……」
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そう、彼は2.26事件を2.27事件と間違えて憶えていたのである。であるからこの話は実にほんとうっぽいのである。2.26事件の話で驚かせてやろうという下心なら、それを2.27事件といって台無しにしてしまうような曖昧な憶え方はしていないはずである。
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「彼」の昨日のお話、「股関節ストレッチ」、「肛門経由の尾骨矯正カイロプラクティック」、「宇宙人『高木さん』」、「風邪退治のイッキ飲み」、「家畜用吸玉療法」のうち、ウラが取れないのはほぼ宇宙人「高木さん」だけである。たぶん「彼」はすべてほんとうにそのように見聞きし、体験もしたのであろう。しかも私が小耳に挟んだだけでもここには書けない話がまだまだあり、さらに掘ればもっともっと出てくるはずである。
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思うに、「彼」は正統的な知識や学問の外で生きていて、たぶんそこには、多くを既存の秩序に依存しながらも、またずいぶんと異なる別の宇宙があるのである。実際にその「彼」の宇宙で生きることを考えるとアタマのなかがクラッとする。しかし「彼」の経験、私の立場でありていにいえばネタは羨ましい。なんとかしてしまいたい。なんとかしてしまおう。もとから私の宇宙はウソでできているのだから。(了)
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