2016年4月29日金曜日

相手によって場面によって、微妙に変化する藤原紀香は100面相





藤原紀香(44)です。イライラの種です。なぜイライラさせられるかというと、これまでに何度も取り上げて書いてきましたが、最後の最後のところまではまだたどり着けていないからです。



どんなにイヤなヤツでも、食べものを咀嚼して呑み込むようによく理解できれば、それ以上に感情を逆撫でされることはありません。想定の範囲内、というヤツですね。無視することも簡単です。だがしかし藤原紀香については、まだそれができていないのです。



おおまかに掴んでいるイメージはあります。足元が「滑る人」です。それをもっと具体的に、うまく言葉にできる自信がなくて、というか、きちんとまとめるにはとても体力を使いそうなので腰が引けていました。



そんなところに、この2016年4月の末になって、コンテンツプロデューサーの田中ねぃ(?)と、ライターの武田砂鉄(33)の2人が、それぞれ小さな藤原紀香論とでもいえるコラムを発表しました。それぞれタイトルをご紹介しておくと次の通り。



武田砂鉄:《藤原紀香がかもしだす違和感の正体》
田中ねぃ:《【考察】私たちはなぜ”藤原紀香”という存在を受け入れないのか?》



やはり2人とも、藤原紀香は掴みどころがないということをどう説明するか? に腐心していて、その「藤原紀香をどう説明するか?」こそがテーマという風情になっています。で、こんなようすを見たズルい私は、これに乗っかればラクができるのではないか? と見積もったわけです。



2人の「藤原紀香論」にいく前に、私の「滑る人」についてザックリ書いておきます。イメージだけですしきちんと整理できていないので、わかりずらいところはご容赦ください。おお、ずいぶん長いエクスキューズです。



 

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藤原紀香が掴みにくい、捉えどころがないのは、私たちが見ている紀香の立像がいつも細かく移動するからです。本人にも移動している自覚はなく、しかもその動きがあまりにも滑らかなので、移動自体を捕捉することもとても難しいのです。



紀香は前後左右に移動します。上下はありません。向上、前進、進化の方向ではないのです。また、ブレるでも分裂しているでもなくて、ただ立ったままスッと移動します。こちらに正面を向けたまま、まるで油を流した床の上を滑るように。移動の幅はそれほど大きくはなくて、時計の針でいうと、左右は正面11時から13時くらいのあいだです。



前後の動き、つまり遠近の距離感の変化のほうはかなり激しくて、はっきりと認識できる、というか驚かされることがあります。たとえば「日々、仕事に対する姿勢やプロフェッショナルな姿勢には刺激を受けていました」みたいな話をしていて次の瞬間「ほんでな、ほんでな」と話しかけてくるような。



紀香はものすごく近いところまで一気に接近してきます。顔面臭が漂ってくるくらい。途中で友近(42)の顔に変わったりもしますが。ところで、芸名としては「友近」でフルネームだということを、ただいまはじめて知りました。そういえば友近のあの妙な余裕もけっこうなくせ者だと思いますけど。



いつも「滑り」続ける紀香ですから、2014年にBlog「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ☆NORIKA’s sensation☆」を開設する以前、紀香は2001年の時点ですでにオフィシャルホームページを3つ使い分けていた、という武田砂鉄の指摘には、深〜く納得させられるものがあります。



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私は、その人物像、まあアイデンティティのあり方というのですか、が紀香によく似ている人間を1人だけ知っています。高校時代の同級生の男ですが、高校を卒業してから10年くらい経ったころに、「滑る」傾向が強くなりました。話をしていると面食らうことがたびたびあります。



その面食らう感覚は、これも武田砂鉄が書いている「紀香が引っ張り上げた紀香を、私は常にそれを客観的に見ていたからねと、別の紀香が下げてくる。紀香は多面体。ある紀香を別の紀香が運んでいく、この状態が長いこと維持されている。」につながるものでしょう。



高校の同級生の「滑る」は最初、話し相手に対する意図的なトラップだったようです。それが時間が経つにつれてクセになり、生き方になってしまったようなところがあります。



ある夜、寝ていたらいきなり何者かに枕を奪われた。驚いて目を開けると、学習塾を共同経営している数人が鬼の形相で自分を見下ろしていた。理由はわからない。という話を彼から聴いたことがあります。それも彼の「滑り」が誤解と苛立ちを生んでいたのだと思います。就寝中の人の家に無断で侵入して枕をひったくるなど尋常ではありません。わかりずらい話ですみませんねえ。



もう1人、というかもうひとつだけ、似たような印象を受けたものがあります。それは、いまはなくなってしまった『噂の眞相』の読者投稿でした。いわゆる寄稿ではなくて、読者からの投稿欄に投稿された、知人に対する愚痴とも恫喝とも哀願ともつかない奇妙な文章でした。



それは、投稿者の知人がいかに理不尽な行動をし、それによって自分が甚大な物的損害をこうむり、通院が必要なほどの精神的ダメージまで負ってしまったのかを綿々と綴っていました。



で、訴えてやる、その準備はできている、こてんぱんに粉砕してやる、おまえなんか人間以下だ鬼畜だ、呪われろとまでののしり、そして最後に唐突に、赦してやるからぜひ連絡をしてくれ、というメッセージで終わっているのです。わかりずらい話ですみませんね。



 

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紀香に戻ります。たとえば4月28日付の「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ☆NORIKA’s sensation☆」に掲載されている顔写真は、たいへん申しわけありませんが、ほぼ典型的な統合失調の特徴を表しているように見えます。しかし妄想や感情の障害はないようなので統合失調ではなく、その他のパーソナリティ障害でもないようです。



おっと、紀香が「滑った」具体例も挙げておかなければ。それでは、3月31日の結婚報告会見での記者との一問一答からです。まずは正面11時にいる藤原紀香です。



「健康面のサポートだけではなく彼が情熱を注ぎ続ける歌舞伎界の仕事を支えることが私の最優先となりますので、藤原紀香としての芸能活動はその生活の中での出来る範囲となります」

「この世界に嫁ぎながら仕事を続けるのは、生半可なことではないと思っています。一番大事なのは夫の仕事。たくさんの諸先輩方からお話を聞いて学んで感謝の気持ちをもってやっていけたら」



「歌舞伎界の仕事を支えることが私の最優先」から「一番大事なのは夫の仕事」へのたいへん微妙な「滑り」をご鑑賞ください。自分の仕事の話になったときには「歌舞伎界の仕事を支えることが私の最優先」ではなくなっています。



次は正面13時にいる藤原紀香です。少し長いですけれども、ここでも途中で友近に入れ替わったりしておもしろいので収載しておきます。

「でも、やっぱり、同じ世界の人同士はなかなかうまくいかないのかなとか、そういったちょっと心の思いとかもあったりして、その思いを抑えてたというか、すごく、引かれてるなと思っていましたけど、それをいや、駄目駄目、お友達、お友達っていうふうに自分の中ですごく言い聞かせていた部分もありました、正直。
 だけれども、会えなくなった、ああもう、会わないでねって事務所から言われたときに、ああ、本当に会われへんのや、あ、会えないんだと思いまして、私自身も同じように、すごく心に穴が空いたような感じになっていて、そのときにちょっと話があるんですっていうふうに言われて、ああ、同じ気持ちやったんやと思ってすごくうれしかったです。はい。」



これ、11時の紀香と13時の紀香のあいだの時間がそうとう開いていたとか、会場の雰囲気が大きく切り替わっていた、とかいうわけではありません。紀香の立ち位置が「滑って」移動しているだけです。



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私には前述した高校時代の同級生と『噂の眞相』の読者投稿という「似た者」の経験があったので「滑る」紀香のイメージを描くことができました。しかしたぶんこうした経験がないと、紀香を捕まえるのはさらに難しいでしょう。それを踏まえたうえで、武田砂鉄と田中ねぃの「滑る人」コラムの抜粋をご覧いただきたいと思います。



武田砂鉄《藤原紀香がかもしだす違和感の正体》
『cakes』(4月27日配信)

《彼女は、2001年の時点でオフィシャルホームページを3つ使い分けていた。(略)情報拡散にTwitterを使い、日記風の文章をブログに投稿し、本音をFacebookに綴るような使い分けを、もう15年も前に完成させていたことになる。その成熟の果てに「ノリノリノリカ」を放出してくるsensation。大きなスケール感に戸惑うのではなく、(言葉としてはやや矛盾するが)「スケール感の大きさを把握させないほどのスケール感」が藤原紀香にはある。問われることもないだろうが「藤原紀香にあって、神田うの、梅宮アンナにないものは」との問いへの正答はソレだろう。》

《(藤原紀香は)ニューヨークで出会ったデザイナーに「服やジュエリーは着ている人の内側を表し、高める。だから、大事なのはデザインより、着る人の内面」と言われたのを受けて、「『♪ぼろは着てても心の錦。どんな花よりキレイだぜ』と水前寺清子さんの歌にもあるように」と、「いっぽんどっこの唄」の歌詞を引用する(藤原紀香『藤原主義』)。この歌詞の後は「若いときゃ 二度ない どんとやれ 男なら 人のやれない ことをやれ」と続いていく。女性の内面を指摘した流れを、構わず豪快に崩していく。スケール感の大きさを把握させないほどのスケール感、とは、具体的に挙げるならば、こういうことである。》

《(藤原紀香は)「いわゆる世間がそう呼んだ“NORIKAブーム”といわれる2000年前後のとき。NORIKAへア、NORIKAメイクの女子たちが街にあふれていた」(『藤原魂』)などと書く。でも、高止まりしない。紀香が引っ張り上げた紀香を、私は常にそれを客観的に見ていたからねと、別の紀香が下げてくる。紀香は多面体。ある紀香を別の紀香が運んでいく、この状態が長いこと維持されている。》



ここで武田砂鉄がなんとかひねりだしている「 スケール感の大きさを把握させないほどのスケール感」あるいは「多面体」「ある紀香を別の紀香が運んでいく」という形容は、私のいう「滑る人」とほぼ同じものを差しているように思えます。砂鉄も手に余している感じが明らかですね。次にもうひとつ、田中ねぃのコラムです。



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田中ねぃ《【考察】私たちはなぜ”藤原紀香”という存在を受け入れないのか?》
『デイリーニュースオンライン』(2016年4月23日配信)

(田中ねぃは、まず「藤原紀香という存在の仕組み」を3つの設問に対する答えで明らかにしようとします。以下要約)

Q1.紀香の仕事は何か?
A.「結局、何が仕事なのか?よく分からない人である。」

Q2.では紀香は、なぜ有名なのか?
A.「結局、露出だけは続けて来たが、理由はすぐに忘れさられる人である。」

Q3.我々、一般人の紀香に対する印象(と割合)は?
A.「結局、明確な人間像も芸能人としてのイメージも掴めない人である。」

Q2.の答えが、というか、つまりは、Q1.からQ3.まで、すべての問いについての答えは「わからない」です。最初からギブアップしています。Q3.の(と割合)は田中ねぃが適当に振り分けたものなので省略しています。以下、本文です。



《紀香は無邪気なのだろう。悪意は無い。ただし彼女自身の内側から滲み出てくる表現や意思も、無い。あっても、まるで伝わって来ない。誰かが「藤原紀香」という空き瓶にいろんなドリンクを入れ、ラベルを貼ったりして20年以上も使ってきただけ。しかし彼女自身は、自分が空き瓶だといまだに気付いていない……。
 ────フランスの哲学者ロラン・バルトは東京について、「中心に皇居という、空虚な、何もない森だけの空間が広がっている」ことに着目。欧州と違い<意味>から解放された日本独自の自由さを肯定的に説いた────。
紀香に意味はなく、紀香という記号(表徴)があるだけ。そこに意味があると見せようとするマスコミや本人に対して、我々は違和感やイラ立ちを感じてしまうのだ。心穏やかに過ごすには、ぬるく見守るか無視するしかない。》



 

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まあ、これは、いわせていただければ完全に蛇足ですね。しかも「ギブアップ」に生やした蛇足。改めて確認すると、芸能人としての「藤原紀香という存在の仕組み」は実に簡単で、とくになにがしかの才能があるわけではなく、バーニングプロダクションという強力な後ろ盾を得て存在している、ということです。



そして、わざわざ「私たちはなぜ”藤原紀香”という存在を受け入れないのか?」と論を立てようとすることは、すなわち人間、藤原紀香について語ろうということなはずです。どうしたのでしょう? ロラン・バルトもねー。



そこのロラン・バルトのところから、論点が「藤原紀香というからっぽな器」の話から唐突に「藤原紀香と私たちとの関係」に移ってしまっています。それをやるなら、まずは「からっぽな器」を「記号(表徴)」に捉え直す手続きをきちんと踏んでもらわないと、ちょっちゅねー、苦し紛れにしか見えませんねー。



で、ふつうの人ならこのように、どうしようもなくなって、やむにやまれず、しかもたいへんギクシャクと行ってしまう「滑り」を、ご本人も無意識のうちにラクラクスムーズに素早くやってのけるのが、人間としての「藤原紀香という存在の仕組み」なのです。わかりずらい話ですみませんねー。(了)




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