2015年3月16日月曜日

ふるさとについて


 過日、海外で開催さた国際的なスポーツ大会の中継を観ていましたら、日系の中年女性が日の丸の鉢巻を締め、陽気に身振り手振りを交えて応援をされている姿が映りました。鉢巻には、丸い紅色の日章の左右に一文字ずつ振り分けて〈母国〉と書かれています。
 私は不意をつかれて思わず涙ぐみそうになりました。〈母国〉、「母なる国」とは、なんと温かく、切実で、血が通った言葉なのでしょう。日本は、彼女にとって知識や理屈ではなく、唯一無二の、文字通り血肉を分けた「母なる国」なのです。
 彼女の心のなかの日本とはどのようなものかと考えました。そこには父母、祖父祖母、あるいはその上の世代から聞かされて育ったふるさとの風物があるでしょう。ニュースで知る現在のようすもあるはずです。しかしいちばん輝いているのは、彼女たち一家に受け継がれている、ふるさとで暮らす人々の記憶だと思います。やさしさや笑顔やちょっと困ったクセ、そういった愛すべき一人ひとりの思い出がなければ、〈母国〉という情のこもった言葉にはならないように思うのです。
 残念ながら私にはそういう〈母なるふるさと〉はありません。今年還暦を迎えた私にして、たとえば子ども時代にいたはずの近所のおじさん、おばさんはぽっかりと不在です。地域や家庭環境、本人の性格なども関係するのでしょうが、そうした、いわゆる地域共同体の濃密な人間関係をうとましく思い、より個人主義的な暮らしのあり方を選び取ってきた経緯が、私達の社会にはあります。
 一方で近年、インターネットの利用がめざましく進んでいます。コミュニケーションの欲求は食欲、性欲と並んで最も古くからある本能だといわれます。この本能をインターネットに委ねすぎると、ネット上での関係や交流により強い帰属意識を抱くようになり、現実との逆転現象が起こります。
 インターネットそのものが悪いのではありません。しかし「私のふるさとはネットです」などとあまりゾッとしない事態がすでに出来しているのではないかと不安にもなります。
〈母なるふるさと〉を持たない私にはたいへん苦手で難しいことですが、これからは「近所のお節介」を心がけます。目に見えない「地域の力」とは、断言しますが、やはり一度は打ち棄てられた「お節介」です。
 周囲に大勢の大人がいる子どもは利口に育つといわれます。しかしそれは二の次、小さな子どもたちが、私や、同じようにお節介な大人達の顔をたくさん記憶に留めてくれれば、そこからきっと〈母なるふるさと〉が生まれます。それはやがて、世界で活躍する彼等の〈母国〉の景色になるでしょう。私とふるさとの、未来への夢です。    (了)





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