2015年3月28日土曜日

小さな助け合い



 最近よく散歩をするようになりました。市の周縁部の商店街はどこもお年寄りの姿が多く、折にふれ言葉を交わす機会も生まれます。これまで両親は別として、お年寄りとの交流にまったく疎かった私にとっては、どなたの言葉もとても新鮮に聞こえます。

「ありがとう」「助かります」「お世話になりました」と、〈小さな助け合い〉ともいえないほどのささやかなお手伝いをねぎらってかけていただく何気ない言葉にも、なんとも温かく、心にしみる独特のやさしい響きがあります。斜に構え、心を閉ざし、素直になれなかった若い頃に、もしこうした経験ができていれば、自然と人を見る目も柔らかくなり、いかばかりか心豊かで明朗な日々が開けたのだろうに、と反省させられます。

「上ってコーヒーでも飲んでいって」
 と誘っていただいたのは、スーパーでのお買物荷物を自宅アパートまで替わってさしあげたお婆さんでした。小柄で少し足の悪い彼女は道すがら、明日からしばらく雨が続くという予報なのでいつもよりたくさんの買物になった、というようなお話をし、この街は便利で住みやすいと笑っておられました。

 コーヒーのお誘いを辞して散歩に戻り、考えるともなく考えていたことは、お年寄りを尊重できない社会は、おそらくやがて精神的、文化的にひどく痩せ、乾いたものになるだろうということです。過去に崩壊した文明はすべからくその直前に急拡大しているという事実と、いささかなりとも関連があるかもしれないと、連想も広がりました。
 こうして私はお年寄りからたくさんの恩恵をいただいています。小さな〈小さな助け合い〉といってよいのかもしれません。

 自転車に乗せた幼いお子さんから落ちた帽子を拾ってさしあげたとき、その若いお母さんは「おじいさん(!)にありがとうっていいましょうね」とお子さんをやさしく諭しておられました。ごくごく普通の、あたりまえのなりゆきですが、助け合い、人を思いやる気持はこうして次々につながり、広がりをもって人と人を結んでいくのだと実感しました。

 考えてみれば、躾、礼儀、道徳やモラルというものは〈小さな助け合い〉を共同体の規範としてまとめ、単純化したものではないでしょうか。なぜお年寄りを大切にしなければいけないのか? なぜ公共の場を汚してはいけないのか? なぜ挨拶は必要なのか? そこには明確な理由があります。それらが〈小さな助け合い〉であり、〈小さな助け合い〉ができる態勢をつくることだからです。

〈小さな助け合い〉は、たとえば生物多様性が形づくる生命の網の目のように、私たちの社会をかたちづくる、目に見えない大切なネットワークです。私たち一人ひとりがやさしく、確かに紡いでいきたいものです。                                  (了)






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