2015年5月23日土曜日
シアワセになりたい2人に
シアワセは主観的なものだから
人さまの幸 不幸について
あれこれいう資格は 私にはない。
たとえ私の目にはフシアワセそうに見えても
本人がそれでシアワセだというなら
それはそういうことだ。
いまはなにかを心に決めて歩く
その過程にあるのかもしれしないし
生きていくうえで避けて通れない
理由があるのかもしれない。
人生の目的をどこに置くのかも
人それぞれだ。
私なりの解釈だが
だから どんな状況にあっても
シアワセだと胸を張っていえる人は立派だ。
いまは自分の意に反して
不本意な暮らしを強いられている人がいる。
世界中が笑顔にならないかぎり
シアワセにはなれないという人もいる。
そうとはっきりといえる人たちは
いまを一生懸命に闘っているのだから
おせっかいは焼かない。
頼まれたときすぐ手を貸せるように
自分を鍛えておく。
そして 状況をはっきり見つめて
シアワセではないといえる人は立派だ。
私自信のことをいわせてもらえば
ときどきは不満でいっぱいになったりしながら
シアワセに生きている。
そのことは誰にもいったことがない。
不満や苦しみは満足や喜びと
たいてい交互にやってくる。
そうと知っているから
シアワセもフシアワセも
自分の胸の中だけで転がすように楽しんでいる。
そういえばいままで 誰にも
シアワセにします なんていったことがない。
それはとても傲慢なような気がしたからだ。
なんていえばよかったのだろう?
シアワセだと感じてもらえるように頑張る
といえばよかったのかもしれない。
もう手遅れだけれど。
……ときどきは自問自答をして
シアワセでもフシアワセでもない
あいまいな 妥協だらけの生き方をしていないか
こっそりと確かめている。 (了)
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