2017年3月18日土曜日

物語の中でセックスをことさら意味ありげに。村上春樹は知らんが



村上春樹の『騎士団長殺し』発売は2月24日のことであった。おっと間違いた。書籍は「発売」ではなく「発刊」といわねばならぬ。でも、まあ「第1部 顕れるイデア編」と「第2部 遷ろうメタファー編 」というのだから、いつもタイトル回りでなんとはなし意味ありげに取り繕ってきたJ-POP的やりくちも、ここへきてついに尽きたかという感じではある。村上春樹の小説はタイトルでもつ。タイトルがないと中身まで成立しなくなる。看板倒れではなく看板頼り。ファンの方には申しわけない。



『騎士団長殺し』など読みたくもないのだけれども、というか村上春樹の小説はこれまで一篇もまともに読んだことさえないのだけれどもなぜ村上春樹かというと、『騎士団長殺し』、けっこうエッチなことがたくさん書いてあるというではないか。ちょっと読みたい。あ、出てきてしまった。別にこのくだりはなくてもいいのだ。しかしせっかく資料らしいものが出てきたので、こういうことらしい。『エキサイトニュース』(2017年2月25日配信)の“〜を読んでみた”という記事から以下抜粋である。



《17ページ。“妻と別れてその谷間に住んでいる八ヶ月ほどのあいだに、私は二人の女性と肉体の関係を持った。どちらも人妻だった。”
いきなり人妻ふたりと肉体関係宣言。
けっこうベッドシーンが多いのである。

18ページ。“最初に関係を持ったのは、二十代後半の背の高い、黒目の大きな女性だった”。彼女とどのようなセックスをしたのかが語られる。

19ページ。“その次に関係を持ったもう一人の人妻は、幸福な家庭生活を送っていた”。こちらも、どのような関係か語られる。

この後も、主人公はモテまくる。
十三歳の少女とのおっぱい&おちんちんトーク。放浪中の名も知らぬ女性とのセックス。
官能的なシーンと、謎で、物語をぐいぐいと引っ張っていく。

“「とても悪いと思うけど、あなたと一緒に暮らすことはこれ以上できそうにない」”
と、妻が別離を言い渡す。

—〈略〉—

謎は次々と増える。

『騎士団長殺し』を描いた雨田具彦は、なぜ洋画から日本画に転向したのか? 
彼がウィーンに留学したときに何が起こったのか?
谷間を隔てた山頂に住む隣人は何者なのか?
法外な報酬を提示してまで肖像画を依頼してくる男の目的な何か?
深夜、聞こえてくる鈴の音は?

謎、ベッドシーン、美術、謎、ベッドシーン、美術、謎、ベッドシーン。

これは『ダ・ヴィンチ・コード』か?と思うようなサービス満点っぷりだ。》



あらあら、4ヵ月のあいだに人妻ふたりゲットというあたりがすでにモテずの本領発揮である。ベッドシーン、って懐かしい。ともかく、このように現代日本最大の売れっ子作家、村上春樹の作品には「セックス」がいっぱいらしいのである。気になるのはその扱われ方だ。あれでモテ男が主人公という気色悪さはその次。モテ男によるモテ男のためのモテ男小説。別に意味はない。しかし重ね重ねファンの方には申しわけない。



もとい『騎士団長殺し』のなかの「セックス」は『エキサイトニュース』の記事がほのめかしているようにただの読者サービスなのであろうか? それともシーンとして書き込まなければならない物語上の必要があるのであろうか?



読んでいないので村上春樹についてはこれ以上いうことがないけれども、うむ、ただのイチャモンであったのう。すまぬ。だがいまの私たちの物語に果たして「セックス」が意味をもつのか? ということを考えたいわけである。なんだか意味ありげに扱われ過ぎていないか? それともそう感じるのはただこちらがトシをとって鈍感になってしまったからだけなのか?



「セックス」が安易に物語の転換点、あるいは終点に利用されることが多すぎやしませんか、と思うのである。はいはい、恋愛ものだとそれであたりまえじゃんとおっしゃいますか。たしかに恋のサヤあてみたいなテーマならそりゃそうでしょうけれども、たとえば田舎町で生まれ育った主人公の男の子が高校を卒業して都会へ出ていく前夜とかに親しくもなかった女と急に一発やっちゃったりするのは、あれはいったいなんざんしょ。



で、それ以後のシーンでそこのところの意味を追究するのかと思ったらそうでもなくて、振り返ればアレがオトナへのイニシエーションであったくらいの扱い。女の子もそう。そんなようなことでよし子はオトナの階段を上りまして、で終り。なぜよし子かは不明。意味深そうな、思わせぶりな扱いで、それを見せられる側もなんとなーくなにか深ーい意味を示されたんだろーなー、と錯覚したりして満足する。村上春樹作品のタイトル回りみたいなもの。



はいこれでオトナになったつもりのことね、とか人生1回チャラになったことね、とかいうのが多すぎる。今日も言葉づかいがおかしいのう。申しわけない。こみいっていて説明や表現がややこしいものは「セックス」、みんな「セックス」に押し付けてお終い。



あの大島渚の「愛のコリーダ」ですら人間存在への問いかけの核になる部分、えっと、阿部定はなにを懸け願い石田吉蔵はそれにどう応えたか、生きるとはどういうことか、とそこが問題であるはずなのに、過剰な「セックス」というモザイクに隠されてしまう。性描写がウリだったはずなのに、性描写に逃げてしまった。おわかりいただけるであろうか?



であるから、なんでもかんでも押し付けられてはブラックホールのように受容していかなければならない「セックス」は、なにかあまりわけがわからないものであるほうが都合がいいのである。物語に詰まったときには推進力にもなるし。トランプのジョーカーみたいなもので。あ、というより便利屋本舗か。



けれどもそういう扱いはもう止めていただきたいのである。というかここを頑張っていただければもう少し人間理解と芸術の枠を拡げられると思うのだけれども誰かやらぬか。エラそうに。



いうまでもなくこれまでのすぐれた作家たちはもちろん、そういうあまりにも安易な「セックス」便利屋本舗の利用、「セックス」の緩用はしなかったのである。読者への媚としても最低の部類であるとして嫌ってきた。



それは正しいし、ここまでグズグズインフレ気味になってきた「セックス」便利屋本舗のあり方に対抗してまったく性描写を排除してしまうという方向も、いまなら意味があると思う。



しかし人間全体を見ようとすればそこには「セックス」があるのである。最終的にはやはり無視し続けるわけにはいかない。で、「セックス」とはなんぞやというお話になる。はしょってきた。



思い出されるのはフロイトだ。ジークムント・フロイト。「セックス」、そして「性」そのものではなくて人間心理のあり方や働きの理由を「性」に求めてそこを追究した。つまりフロイト的な考えは上層に社会生活なりなんなりがあって、それに下層から糸を引いているものが「性」であるという垂直の構図を描く。あ、ここで「性」といっているのは本能のことで「セックス」といっているのは性行為のことである。



で、それは蒸し器おっと間違いた(by荒木経惟)無意識の世界でのことであるからなにがなんだかの部分が多く、「セックス」が便利屋本舗であり続けるにも都合がいい。いま考えてみればセックスを「死と再生」とかいってみたりしたのは、あれはいったいなんだったのかという気もするっしょ。



「性」のあり方が無意識を通して行動も支配するというのであるから実際は逆なのだけれども、そして「性」と「セックス」の混同もなんのその、気分は上下、王様はボクだ家来はキミだー(by筋肉少女帯「踊るダメ人間」)と、いわれのないパワハラまで「セックス」は受け続けてきたのである。「セックス」は世間付き合いよりも下等なおこない。



上下、これがよくないのだ。同じ人間のことなのであるから同一平面、少なくとも裏と表くらいにはしてもらえんかのう、と思う。たとえば“荒々しい”とか“弱々しい”くらいにしか表現されない「セックス」が食事くらいの語彙を獲得するまで、裏側、月の裏側ということでもいいから上下はやめていただきたい。



食事のアレコレを語られればその人物のおおまかなイメージは描ける。「セックス」を語ればその人がわかるとまでいくのには、……ムリか。やっぱり。“私、「セックス」グルメの渡部建です”みたいなヤツが出てきてアレコレ講釈を垂れられても気持が悪すぎる。いまでさえ気色悪いのに。「セックス」、つまりベッドが食卓と肩を並べる日は遠い。



しかし、なんでもかんでも「セックス」に押し付けてそれで事足れり、あるいは意味ありげに装う時代はもうとっくに終わっていることは確かなのである。なんとかしていただきたい。そして書くならR指定でもいいから、まずはふつうの「セックス」をふつうに描いていただきたい。どうせモテず男に詳しいことはわからないだろうし。(了)


OCN モバイル ONE データ通信専用SIM 500kbpsコース


CMで話題のコスメやサプリがSALE中☆


【DHC】最大70%OFFのSALE開催中!




0 件のコメント:

コメントを投稿