2017年3月7日火曜日

顔面へのツッコミが厳しくなり続けているこのごろ。苦しくない?



テレビを観なくなった。以前は毎日8時間はテレビを見続けるというたいへん自堕落な生活をしていたのだけれども、最近では合計しても1日1時間を超えることはない。差し引き7時間もの余裕はどこへ消えているのだろう? ボーッとしているのか。



テレビを観なくなったのはもちろんテレビがつまらないからで、しかし振り返ってみればテレビ芸能はかなりむかしから、少なくとも21世紀に入るくらいからはしっかりつまらなかった。そんなつまらない、たとえば歌番組だのバラエティなどをなぜ観ていたのかといえば、そこに出ている芸能人たちの顔を見るのが楽しみだったからだ。



画面のなかでの細かなやりとりの瞬間に垣間見えるお互いの関係だとか立ち位置、喋っている内容を表情が裏切ってしまう瞬間、あざとくわざとらしい立ち居ふるまい。典型的な例を挙げれば小林幸子(63)であろう。これが大好物だったのである。



あ、1970年代に『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)で轟二郎(62)が「ワザトラマン」というギャグをやっていたけれども、あれはまだツッコミの対象が芸風であったのであって、芸以外のたとえばインタビューやフリートークの場面などでのわざとらしさがさかんに言挙げされるようになったのは1980年代のアイドル全盛期からだと思う。



で、まあ21世紀に入ってからも、そういう虚実ないまぜの世界を楽しむプロレス的な見方でテレビを楽しんでいたのである。しかしそれにもいまやもうすっかりアキアキなのである。いつも同じ顔ぶればかりなので、もうまるでジャイアント馬場(享年61)最晩年の全日本プロレスを見るような気分になる。



私としては目新しい顔、まだ見たことのない人さまのが見られれば文句はないので、自然にチャンネルはニュースかNHKに合わせることになる。教育番組のゲストはどのジャンルでもかなり独特な方が多くておもしろい。いわゆるテレビ馴れをしておらず、テレビカメラの“邪眼機能”に無防備なのも楽しい。



あ、唐突であるけれども、これからはテレビカメラのことは“邪眼機”と呼んでいただきたい。冷蔵庫は“飢餓地帯”、受話器は“耳”である。なにしろ1日7時間も余っているのであるから余計なことをいろいろ考える。



そんなわけでテレビ芸能に対する邪眼的な見方の関心の中心はもっぱら芸能界の政治に辿り着くことになる。いま現在でいえばジャニーズ事務所の没落、田辺昭知(78)と周防郁雄(76)の反目、そして飯島三智(59)の新党結成が大きなトピックである。つまり実際の政治でいえば政治そのものではなく政局をおもしろがる傾向である。



芸能界でも政治の世界でも、少しくらいイメージダウンになることでも、とにかくニュースになり続けていなければいけないというのがすでに鉄則になっている。これは芸能そのものや政治・政策から芸能政治、政局へと一般の関心が移ってしまっていることを意味している。



さてそうした状況にすっかり置いていかれてしまっているのがテレビ芸能である。バラエティや歌番組などはプロダクションなどが芸能政治を通して奪い合う利権に成り果てていて、芸能政治そのものを取り扱うことなどもはや夢のまた夢だ。芸能政治の葛藤そのものを眺め楽しみたい視聴者は必然的に週刊誌やネットに流れる。



ただいまのテレビ芸能はいわば記者クラブが仕切る公式会見みたいなもので、体裁よくととのえられてはいるけれども、それは事実のごく一面でしかないとみな承知しているのである。そしてこの“隠されたその他”のほうが芸能そのものよりもずっと面白いことも皆が知っている。



これではテレビ芸能に未来はない。もともと日常から逸脱した世界、ありきたりではない感情や感覚に軸足を置き、そこから生命力とエネルギーを得て輝く芸能というものをCMのための視聴率稼ぎに利用せざるを得ないのが民放テレビの宿命である。それがテレビ芸能をつまらないものにし、その結果として芸能政治人気を生んでしまったのだ。



スポンサーからのクレーム、いやスポンサーへのクレームに脅えてすぐに自己規制、自粛というのではおそらくこれからも着実にテレビ芸能はダメになり続けるであろう。しかしそれがテレビ芸能の宿命であるとするならば、テレビ芸能は将来はっきりと子ども向けのスタンスを取るしかない。オトナの芸能が見たければ自腹でネットテレビなりを見る。そういう時代になるだろう。オトナの芸能をする者がそれで生きていくことはいまより数段厳しくなる。それでいいと思う。



そういうわけでオトナの芸能が抜けたぶんテレビに報道番組、情報番組が増えれば、たぶん芸能人以外の一般人やジャンル外の専門家などの顔を見る機会も増えるはずなので、私の晩年にはまた地上波のテレビづけという幸せな日々が送れるかもしれない。



あ、はい。なぜそんなに人の顔に執着するかといえば人間に興味があるからで、ほぼ物心がついたころから人さまの気持をあれこれ忖度してばかりいるイヤなガキだったのである。心の動きは最も顔面に出る。そしてそのうちそれぞれの生活史みたいなものまでも顔面に現れていることに気付くようになる。そうするともう顔面に首ったけである。物語を読むように顔面を読む。



小学校に通うバスのなかでもいつもオトナたちの顔ばかり見ていたし、通りすがりの誰かの顔面をジロジロと眺めるのはやはり失礼だと自制が効くようになったのはつい最近である。いや最近も自制し切れているとはいえないか。



そしてそんなこんなで、その人物のすべては顔面に現れるとする「全顔主義」を標榜するまでにこじらせてしまったのは、このブログをお読みいただいているみなさんすでにご承知の通りである。うむ。こういう調子こいたものいいをいつかしたいと思っていた。



「全願主義」。どうせいい加減なものだと思われるであろうか? いやいやなかなかそうでもないのである。これまで現実に、あるいはテレビを通してみた顔はおそらくどんなに少なく見積もっても100万個を超えているはずである。畏れ多くも顔を“万個”と数えていいのであろうか?



考えてもいただきたいのである。100万個である。人相学、観相学は人の顔と生き方の相関を実際例から統計的にまとめたものだ。すでに紀元前、古代ギリシャ時代からの歴史がある。それは尊重するけれども、この私のように100万個もの同時代の顔面を眺めるなどということは、つい1世紀前までは思いもよらなかったはずである。



1人の人間が100万個もの同時代の顔をしげしげと眺められたのはひとえにテレビのおかげである。日本でテレビ放送がはじまった1953年まで、ふつうは他人さまの顔をしげしげと見つめるなどということはできなかったのである。してはいけない礼儀知らずの行いだったのだ。まあ、どこか公共の場所で他人さまの顔をしげしげと眺めれば、バカにしているのか因縁を付けているのか、と揉めごとに発展するのがオチだ。



しかしテレビ登場から64年のあいだに不肖私が「全顔主義」を標榜することになるまで、一気に顔面の開放は進展した。おわかりいただけただろうか。「全顔主義」は人間を語るための重要な手がかりなのである。まだ誰にも理解できるように体系化できていないところがイタいけれども。もっともっと、1日24時間ヒマになったら挑戦しよう。



そして一般の方々の顔面解読力も、知らず知らずのうちにテレビでの観察を通して人類史上かつてない、めざましいレベルにまで発達しているはずなのである。未曾有の事態である。考えように寄っては怖い。これが現代ニッポンの息苦しさのひとつの理由だと私は思う。最近のマスクばやりも、やはりそこにひとつの意味があるだろう。私? もちろん私にもマスクは必携だ。いつも1人でもニヤニヤしているので。少し意味が違うか。(了)



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