2016年6月30日木曜日

テレビから「お笑い」が消えようとしているという事実



「お笑い」は笑えなければダメ、だと私は思う。“興味深い”とか、わけのわからない“感動”なども範疇の「面白い」で語られるようでは「お笑い」ではない。「お笑い」は笑えるか笑えないか、あるいは笑わせられるか笑わせられないか、がすべてである。そしてその道のプロがお笑い芸人である。シビアなのである。



テレビで見るかぎり、「お笑い」というジャンルは、いまやほとんど絶滅寸前である。唯一『笑点』が健闘しているように見える。見えるけれどもレギュラーに林家三平(45)を招き入れた時点で「お笑い」度数は一気に下がった。ガッカリである。『さんまのお笑い向上委員会』は楽屋ネタ、内輪ネタばかりで、いっこうに向上する気配がない。明石家さんま接待番組である。



林家三平には「お笑い」の凄みがないのである。落語家としてヌルすぎる。嫁ネタならフジモン(45)でも宮迫博之(46)でもできるのである。とはいえ三平、いまさら他のことはできないから落語にしがみついている。ああ、もうはっきりいってしまえば、落語界に海老名家は無用である。というか落語界のお荷物である。林家正蔵の名跡をいったいどうしてくれるんだよう!!



テレビで「お笑い」というジャンルをここまで弱体化させたのは「バラエティ」というやつだ。なんでもありの世界だけれども、ただひとつ芸の厳しさというものだけが欠けている。



出川哲朗のリアクション芸(52)は撮られ方を熟知したカメラ芸であって「お笑い」の芸ではない。そんなようなわけなので、笑わせられなくなったお笑い芸人はなんとか笑わせられるように努力、研鑽する、のではなくて、安易に脇に流れる。



脇に流れるというのは、たとえば企画ものである。「〜ドッキリ」とか「〜クイズ」とか「〜体験」とか。しかしそれは別にお笑い芸人でなくてもできる仕事なのである。菊地亜美(25)でも鈴木奈々(27)でも立派にこなしている。



そういうことを考えると、ここ数年、ビートたけしなどが落語に注目しているのにも合点がいく。純粋というかある種ストイックに「お笑い」に向かっていくのが落語だからである(海老名家は除く)。



そこまで考えたのかどうかはわからないけれども、だから月亭方正(48)が落語に舵を切ったのは正解だと思うのである。あのヘタレが、と松本人志(52)も心中穏やかではないはずである。



そういえばナインティナインの岡村隆史(45)が、『解決! ナイナイアンサー』(「日本テレビ」2016年5月31日放送)で、今後の自身の展望について「ずっとテレビに出ていたいと思っている」と語っていた。情けない。



でもって、「テレビに出たいと思ってこの世界に入ってきて、ネタとかあんまりやってないから、漫才師というわけでもないし」、「舞台にそんな出てきたわけでもないから、帰るところもないし」なのである。岡村隆史、もともと「お笑い」の人間ではなく、バラエティ班なのである。



それにしても「ずっとテレビに出ていたいと思っている」といってしまっては目的と方法が逆さまではないか。「テレビに出る」というのは人を楽しませるための手段のひとつであって、それ自体が目的にはならないはずである。それが展望とまでいうなら、まるで素人である。



あの、砂浜の海岸を、やたら前垂れの長いフンドシ一丁で全力疾走し、爽やかな笑いを巻き起こした岡村隆史はいったいどこへいったのであろう? 作家の考えたこととはいえ、あのときの隆史には、笑わせることへの迷いなどなかったのである。有無をいわさず笑わせるチカラがあったのである。献身があったのである。股のあいだから後ろに引きずった前垂れの端には火が燃え盛っていたのである。



うむ。体が動かなくなってしまったのだから、それはもう詮無きことなのかもしれない。おお、もはやそれは「無問題」ではなく「大問題」である。去年の『27時間テレビ2015』(フジテレビ)での長時間にわたるノンストップダンスは、正直、目を覆いたくもなったのである。



では岡村隆史はいま現在、どのようにして「ずっとテレビに出て」いようとしているのであろう? そこで性格の悪い私は、『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』での数々の暴言、珍言のたぐいを思い出してしまうのである。



そう、たいへん申しわけないが、いわゆる炎上商法である。かつてはナインティナインとしての看板番組だった『めちゃ×2イケてるッ!』が打ち切りの瀬戸際に立たされて久しいいま、生真面目な岡村隆史がなにも手を打ってこなかった、と考えるほうが不自然だと思うのである。えっ? 「カガリP」が移動になる? それではほんとうに今度こそ危ないではないか。



岡村隆史の最近の暴言は、たとえば長友佑都(29)と平愛梨(31)の交際についてである。「俺ね、上手いこといかへんと思うねん」と冒頭にひとこと。そしてその理由は平にあるとし、極端な潔癖ぶりや強すぎる家族愛をあげつらっていたのである。(「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」2016年6月9日放送)



婚活に失敗し続けている岡村隆史であるから、「お前にいわれたくねーよ」の典型である。というか、そんな岡村隆史ではなくても、実際に幸せな結婚生活を送っている方でも、こんな発言はしていけないのである。隆史ご本人もそれに気付いていないはずはないのである。でも口に出してしまうのである。



おっと、隆史は「(頭が)パッカーンってなった」(by Wikipedia)ので2010年には約5ヵ月間の長期休養をしているのである。しかし本人の言葉を信用すれば、現在服用しているのは「薄毛の薬だけです!!」(by本人)らしい。あと漢方薬を毎日3種類飲んでいるという話もある。



かつては久米宏にクレームを付けたこともあった。
「前から久米宏さんが来はったんですよ。俺はおはようございますっていって、頭を下げたんです。ところがですよ、久米さんはそのまま素通りしたんです」、「芸能界に22年いて、まだこんなことあんのかって。悲しくなった」、「こんなことってある? 芸能界っておかしい。もう芸能界を他人に勧められない」(「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」2013年5月10日放送)。



まあ、ことほどさように別に喋らなくてもいい、喋らさないほうがいいことをわざわざ電波を使って吹聴することを、岡村隆史のご意見番化=和田アキ子(66)化というらしいのである。



これには岡村隆史のマジメな性格が影響しているのだという説がある。題して岡村隆史の義務感説である。ここのところを、『デイリーニュースオンライン』(2015年12月3日配信)は、「ラジオ番組関係者」の話として次のように解説している。



《以前の『ナインティナインのオールナイトニッポン』では、笑えるネタをメインに扱っていましたが、今は芸能ニュースや時事問題に意見することをメインにしています。これは恒例化していますが、そもそも誰かから頼まれたものでもありません。自分で勝手に話し出して、それがネットで話題になったため、『俺が喋らなアカン』と勝手に義務感を背負いだしたのです。本人の中では“世間が俺の意見を求めている”と思っているようです》



そうか? 「俺が喋らなアカン」のならその評価、反響についてもチェックしているはずである。自分はご意見番としてダメだ、ということは先刻ご承知のはずである。それでも喋ってしまうのである。



『デイリーニュースオンライン』で「テレビ番組関係者」はこうも語っている。

《「退院後は攻撃的な性格になったといわれています。岡村さんは基本的には礼儀正しい人なんですが、退院後は正義感が強くなったのか、少しでも敬語の使い方が間違っていたり、モノの渡し方が悪いと怒るようになりました。
無論、それ自体は社会人教育として考えれば悪くないことですが、言い方がひどいんです。一言だけ『ダメだよ』と注意すれば済むようなことでも延々と相手を責め続けるんです。相手が泣くまで続けることもあるので、さすがに否定的な見方も多いですね」》



しつこいオヤジは嫌われるのである。身長体重に関わらず。で、さらに「テレビ番組関係者」はこう続けているのである。



《「今の岡村さんと話をするときにはスタッフは相当気を使っています。そのため、必要な会話以外は避ける関係者も多いですよ。病気だからそうなったのか、病気が治ったからそうなったのかはわかりませんが、とにかく以前の岡村さんのほうが付き合いやすかったですね」》



私としては、岡村隆史のおしゃべり病は、「(頭が)パッカーンってなった」影響が先にあり、炎上商法としての目論見がそれを正当化して成り立っているのだと思うのである。かつてなにかにつけ「喋れない」と批判されていたことへの反発もあるのかもしれない。



だがしかーし、実はそんなことはすべてまとめてどーでもいいのである。岡村隆史がお笑いではなくてバラエティ班だったにしても、視聴者をもっと笑わせればすむことなのである。ここらで少しアタマを冷やして考え直してみたほうがいい、と思うのである。それでいいアイデアが浮かばなければ、もうテレビには出ないほうがいい。なにしろイタい。(了)


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2016年6月29日水曜日

アメリカのエンターテイメントはみんな露出し過ぎじゃない?



アメリカの女性シンガーたちはどうしていつも裸同然の恰好をしているのだろう? テイラー・スウィフト(26)、レディー・ガガ(30)、ビヨンセ(34)がいまのビッグスリーだと思うけれども、みなさん相当に露出度が高い。



ライブの映像を観ていて、あまりの過激さについ目を逸らしてしまうこともしばしばである。私は恥ずかしがり屋なのである。ウソである。しかしマドンナの場合だけはほんとうに目を逸らすか、または閉じる。自分の目を呪って生きていきたくはない。



テイラー・スウィフトはこの3人のなかでは、やや露出度を抑え気味ではある。いってみれば不言実行タイプだからである。それはそれでまた独特の怖さがあるのである。なにをいっているのだか。



グラミーや、それからオスカーの授賞式でも半裸の女たちが群をなしている。みなさんお寒くはないのか? お恥ずかしくはないのか? それよりなによりおつむがどうかしていらっしゃるのではないのか? と首を傾げるくらいにセクシーであられる。最近ダイエットに成功したらしいマライア・キャリーも(46)そうとうシドイ。



あーんな胸元のお肉の盛り上がりに当地日本でお目にかかったのは、そうさなあ、むかしむかしの戸川昌子(83)とカルーセル麻紀(73)くらいのものである。また古いのう。ついでにくだらないことをいっておこう。



戸川昌子、カルーセル麻紀とテイラー・スウィフト、レディー・ガガ、ビヨンセとの決定的な違いは、画面から伝わってくる匂いである。日本チームは日本海、アメリカチームはネバダ沙漠の匂いがする。それぞれに洗練を重ねても、どこまでいってもこのふたつは決して交わることがない。



そうそう、そういえば、今年、2016年の日本アカデミー賞主演女優賞は安藤サクラ(30)であった。アメリカの、物量投入型の、そしてあまりにもあっけらかんとした肉体礼賛ぶりに呆れ果ててはいるものの、サクラはサクラでまた正直なところションボリなのである。どんなに激盛りしてもたぶん勝ち目はないのである。ベビードール激盛りでもサクラはサクラ、やはり大輪のバラにはなれない。



風土や文化が異なっているのだから、あたりまえのことである。しかしなぜにアメリカの芸能界の女性たちはあれほど肌を露出するのか、露出がお好きなのか、どんなお気持ちで、ということは知りたい。ああ、そう。通りがかりの知り合いによれば、セクシーでなければダメ!! なのらしい。



セクシーというのは「性的魅力のあるさま。性的なものを感じさせるさま。」(byコトバンク)である。色気がある、色っぽくてカッコいい、みたいなことであろう。いずれにしてもその根底には性、生殖がある。つまり相手があっての話である。



けなしているわけではないけれども、露出の多いセクシーな服装というのは、突き詰めていってしまえば「繁殖可能です!!」ということをアピールしているのである。うむ。で、アメリカの男たちはそれを求め、愛でる、と。なんというか、結局それかよお!! そうだよ! それ以上なにがあんの? という元も子もない感じにいきつくのである。



再びけなしているわけではないけれども、すべからくエンタテインメントにはセクシーが、「それ」がついてまわる。楽曲の歌詞もそう。ダンスの振り付けもそう。おかしくないか? で、そのことに違和感を抱いている自分は何者なのか、とも考えてみるのである。ああ、わかってきた。



「kawaii」というやつ。私は別に「kawaii」でいてくれと誰かにお願いしたこともないし、いままで「kawaii」が好きでもなかった。しかしこんな私のような有象無象の存在も「kawaii」の成立にまったく無縁ではなかったと思うのである。



私にとって「sexy」は海の向うの出来事である。しかしそれがテレビなどで盛んに喧伝されるようになるにつれ、なにかにつけの「sexy」に違和感を感じはじめてきたのである。「sexy」の侵略である。



「sexy」にはオドオドしてしまうけれども、「kawaii」なら心は平安である。でもって、その心性が「日本には女の子とオバサンしかいない」といわれる状況をつくりだすのにも貢献しているはずだ、ということである。



問題は、「女の子」と「オバサン」のあいだにいるべき「女性」がいないということではなく、「女性」を示すパラメータがないということだ。男としては、「女性」を否定しているわけではもちろんない。女の「性」は不要、それはただ男の「性」の反映であればいい、と思っているわけでもない。しかしアメリカでの「 sexy」に替わる適切な形容がない。それがいまの私たちの日本海の匂いのする文化だ。哀しみ本線日本海である。



ついでだけれども、この場合、「哀しみ本線日本海」の場合、「ニッポンカイ」とはお読みにならないはずである。日本海は「ニホンカイ」である。「ニッポンカイ」ではさすがの石川さゆり(58)も歌いこなせないのである。日本は「ニホン」。突然の議員立法で「ニッポン」もあり、と決めるなんてイカしてる、おっと間違いた(by荒木経惟)イカレてるぜ。



女性の形容である。艶っぽい、粋、優雅、典雅というと少なくとも20代後半からのイメージで、しかも静的である。株式会社典雅の社長はたんぽぽ川村エミコ(36)の彼氏である。カタカナに頼るのは癪だけれども、エレガントだとかシックだとかいうと、なぜだがLUXを思い出す。つまりキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(46)クラスである。



年の頃だけをいいあてるのならば「娘」であろう。しかしこれは未婚であることが条件になる。独立・自立している感じもない。「嬢」も未婚の女性である。むかしは美空ひばり(享年52)のことで、最近では接待飲食店のホステスのことでもある。「sexy」に替わる言葉を見つけるのは容易ではない。



アメリカでは、たとえば女性歌手がステージに上がれば、すぐにセクシーかどうかという目で見られる。日本では可愛いかどうかである。したがってアメリカでは女子=女児からほぼダイレクトにセクシーに接続していくのである。



ただちに「それ」がついてまわる。ロリータコンプレックスというものへの強烈な忌避感の理由がわかるような気がする。アリアナ・グランデ(23)など歌手デビュー時はヒヤヒヤものであっただろう。



対して日本は、いまや「それ」がついてまわるずっと前に、赤ん坊から童女、老女までを幅広くカバーする「kawaii」に属する。生殖能力の有無や既婚未婚にかかわらず、「kawaii」のである。であるから下着ファッションなどといっても、結局はTシャツの上にキャミソールを重ね着するくらいのことになってしまうのである。



この点についてはもう少し「ヴィクトリアズ・シークレット(Victoria's Secret)」のファッションショーに学んでほしかったのである。裸のオンパレードである。そういえば下着ファッションショーはもうやらないという噂を聞いたが、どうなのだろう? 心配である。あれ? いやいやたまに観るぶんには眼福なのである。



もとい。そう考えると「kawaii」というのはなかなかいい言葉ではないのか、と思うのである。いつまでも子どもっぽくいろというわけではなくて、艶っぽい可愛さ、粋な可愛さ、優雅な可愛さ、典雅な可愛さ、と少しだけ適用の幅を広げればいいのである。



「可愛い」は「愛す可(べ)し」なのである。「それ」すなわち生殖能力の有無や既婚未婚にかかわらず、愛すべき人=「kawaii」でいいのではないのか? 「sexy」かどうかは照明煌々の公の場ではなくて、どこかでひっそり当事者たちだけで判定すればいいのではないのか?



「ladies first」と「sexy」を並べ眺めていると、彼の地では女性の価値とは結局「それ」なのかなあ、とも思う。おお、そうさ!! そうだよ! それ以上なにがあんの? といわれてしまえば、あんたたちはそうなのかあとブレそうにもなる。しかし実際に、そんな「それ」とはまったく関係なく、趣深く愛すべき人たちはたくさんいらっしゃるのである。



もっと「kawaii」に誇りをもっていいのである。いやもつべきなのである。「日本には女の子とオバサンしかいない」ではなくて「kawaii とオバサン」がいるのである。それで十分なのである。女の子もオトナの女性も「kawaii」のである。すまぬ。オバサンだけはどうしても別枠にせざるを得ない。どや? (了)


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