近所の居酒屋へ行ったらオヤジがニヤニヤして迎えてくれた。なにか仕込んで待ち受けていた感じである。案の定
「“一線は越えていない”っていってた今井絵理子(33)のイッセンつーのはどこにあんだろね」
と目下もちきりの話題で話しかけてきた。SPEEDだから法定速度のことじゃないの? と離婚成立前の気の早いちょっかいにかけて答えたら、オヤジ、カウンターの向うから身を乗り出して
「メコスジ」
とひとこと。素敵なおもてなしである。もう70代のはずなのにお達者である。漢はこうでなければいけない。
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「週刊新潮」(2017年7月27日発売号)のスクープ《仕事より男に溺れる「安倍チルドレン」 「元SPEED今井絵理子参議院議員」の略奪不倫》でいちばんトクをしたのは反自民勢力でもテレビ局でもなく大宮エリー(41)である、なぜなら日陰のようなブスだから今井絵理子の登場でまったく見えなくなった、せっかく男好きの激しさがオモテに出はじめていたのに、という点で私たちの意見は一致し、さらにオヤジは
「女好きはブスだからっつってほかすんじゃなくてブスもバリエーションのひとつに入れんだよ。だーから女好きっていうんだよ」
ときわめて冷静で現実的な見方を示したのであった。
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ロクでもなく楽しいひとときはあっというまに過ぎ、帰り途、ふと車道の反対側のマンションを見上げると灯りの漏れている窓がひとつもないのに気がついた。8階建て、道路に面して1フロアたぶん6戸が入っているそのどの窓にも灯りの気配がないのである。
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夜の11時過ぎで、まさか入居者すべてが遮光カーテンを使っているなどということはないであろうし、上の階なら窓を開けて夜風を入れていてもいいはずである。全員がいっせいに退去したのなら居酒屋のオヤジが話の種にしたはずだ。いや、いま思えば私はこのときから異界に足を踏み入れていたのである。
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異界での第1撃は寝入りばなに右足の脛を襲った。筋肉が激しく攣ったのである。その筋肉に引っ張られて逆立つつま先を左足の踵で押さえながら時計を見ると午前2時過ぎであった。痛くてたまらぬ。しかも脛とは反対側のふくらはぎまで固くムクムクしてきた。強引につま先を伸ばそうとすると今度は後ろのふくらはぎまで攣りそうである。自慢ではないけれども痛みにはからきし弱い。
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たとえばある国を旅行中、突然いわれなく拘束されたとする。完全になにかの間違い,誤認逮捕である。無実の罪。しかし取調室で「素直に話さないと痛い目にあうぞ」とひとこと凄まれようものなら「拷問? あらー、どうしましょ。さっそくどこからお話ししましょ」と聞かれないことまで手当たり次第、嘘までついて必死にいいつのってしまう自信がある。取り調べ官の呆れ果てた目付きまで目に浮かぶ。
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で、攣って反ろうとする右足のつま先を左足の踵で押さえ、つまり仰向けに寝て脚を重ねウトウトしはじめたとき、追撃がきた。今度は左足の脛である。「前脛骨筋」。触ってみると、これが真ん中あたりで力こぶのようにくびれている。右の脛ももちろんまだ痛い。さらにまた攣りが激しくなる。よりによってこんなときに小便もしたい。膀胱が固くなってしまったのだろうか。
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「あぶないあぶない……」(by福田和子)とかなんとか、痛みをこらえたロボット歩きの果て、ようやくの思いで便器に腰掛け、排泄をはじめても両方の脛はますます激しく攣っている。まったくなんの因果か!! 両方のつま先が反って虚空を指しているのである。なんだろうなあ、走り幅跳びの着地直前のポーズである。
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大袈裟だと笑われるであろう。しかし痛みへの耐性は人それぞれだ。それは若いころ、というか子ども時代から鍛えないと強くならない。中高年になってからキックボクシングなどをはじめても続かないのはそのせいが大きい。幼児のころから一貫して書斎派・メタル派だった私には足の攣りとはいえ非常事態に近いのである。
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スポーツには縁がなかった私ではあるけれども、歩くのは好きで握り飯と手拭いさえあればどこまででも歩いていく。ときどきヤマシタあるいはキヨシと呼ばれさえする。昨日は日中、片道6kmほどの道のりを人に会うため、どいうわけかかなりのハイペースで往復した。そのあと近所の居酒屋でそこのオヤジと飲み、疲れて帰ってストレッチやマッサージをしないまま寝てしまったのが失敗の原因であった。
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そしてついに、ふくらはぎも攣りはじめたのである。脚、膝から下が前も後ろも攣っているのである。うっしろからまえっから攣っている。反り返るわけにも伸びるわけにもいかないつま先が板挟みの状態でもがき苦しんでいる。どうなるのだろう? 自分の筋肉に引っ張られて脚が縮んでしまうのではないか? とまで考えた。
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水分補給に水をゴクゴク飲んだのがきいてまた小便がしたい。トイレに向かう姿はたぶん脚の短いトールマンである。
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で、ほうほうの体でベッドに戻り、縛り付けられたように仰向けになって必死に痛みをこらえていると、枕元右側に気配が近づいた。右側は壁である。誰かが入り込めるような隙はない。
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しかしたしかに気配はあるのだ。たぶん犬くらいの大きさのもののようで、かすかな呼吸まで聞こえる気がする。そのうち唸り、あるいは気味の悪い笑い声が耳元で炸裂するに違いない。
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子どものころの私を溺愛してくれた亡き祖母は巫女的な人であった。それを仕事にしていたわけでもないのに、人づての評判を聞きつけて占いやら祈祷やらを頼みに大勢が寄ってきて家族が困ったこともあったらしい。
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おばあちゃんは、——いいトシをして子どものように、おばあちゃんはこんなときどうする? 念仏でも唱える? とアタマのなかで聞いてみた。そういえば私と同じように祖母に愛されたはずの父親は抗がん剤で幻覚を見るようになったとき「武士の首が飛んでいる」と訴えたことがあった。
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「脚は抽き出しのなかにしまってある」
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ささやき声は確かにそういった。
ああそうか、おばあちゃんは新しい脚を用意してくれているのだ。
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起き上がってクロークを開け衣類箪笥のいちばん上の取っ手を恐る恐るひくと、果たして裸の左脚が1本ゴロンと横たわっている。少し汚れているだけで臭いもないけれども、膝から下の肉がごっそりとこそげて灰色の骨が剥き出しだ。
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これをどうすればいいのだろう?
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いつのまにか紺色のジャンパーにひっつめ髪の女が手袋をしてその脚を検分していて
「頭と胴体は別々に下の段に入れてあるはず」
と白い顔をこちらに向けて説明してくれた。そうか、頭と胴体もあるのか、とそのときの私は目の前の左脚のことはもう忘れて安堵し、ベッドに戻ったのである。
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ベッドに戻って目を閉じ、考えるともなく考えるのは、あの女はいったい何者なのであろうか? ということであった。まったく見ず知らず。50歳くらい。中肉中背でまったく化粧っ気がない。なのに不思議なことに恐怖は湧かず、であるからどこからどうやってこの部屋に入ってきたのだろうなどという当然の疑念も浮かばなかった。
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気になるのは、ただ女が警察の捜査員なのか、考古学のための発掘チームの一員なのか、ということだけであった。捜査員であれば私は最近殺されたことになるし、発掘チームの一員であればきっともう大昔に命を失っていたことになる。最近殺されたのであればその恐ろしい出来事を思い出すかもしれず、すでに大昔に絶命していたのであれば、きっとやすらぎの境地がもたらされるであろう。
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ひき出しのなかに転がる左脚には血糊が付いていたっけか? いやいやそんなことを考えるより箪笥の下の段の頭と胴体を確認したほうがいいのではないか? ちょっと待て!! 左脚と頭と胴体はわかったけれども右脚と両手はどこへいった? 私の右脚と両手は!!
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そして気がつけば、私は縛り付けられたように仰向けにベッドに横たわり、攣って反ろうとする右足のつま先を左足の踵で押さえ、つまり脚を重ねて一線を越えられないように頑張る今井絵理子のポーズで眠っていたのである。
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クロークのなかの箪笥のひき出しはまだ確認していない。(了)
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