今日のお題は昨日から少し引きずって、ドラァグクイーンっぽい方々についてである。ここから先すこし、ドラァグクイーンについての説明は昨日の記事の再掲になる。しかし、「ドラァグクイーン(drag queen)をきちんと説明しようとすると長くなるので『男性が女性の姿で行うパフォーマンスの一種。』というWikipediaの解説でご容赦いただきたい」、というだけである。なんのことだか。
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世界的に有名なドラァグクイーンといえばやはり映画『ピンク・フラミンゴ』(ジョン・ウォーターズ監督・1972年)の主役、100㎏を超える巨体のディヴァイン(Divine、享年42歳)であろう。日本ではマツコ・デラックス(44)、ナジャ・グランディーバ(43)、ダイアナ・エクストラバガンザ(41)あたりが体型もよく似ていて連想されやすいのだろうと思う。
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日本でドラァグクイーンという呼ばれ方がされはじめたのは1990年あたりからで、2000年代後半にはマツコ・デラックスの登場でマスコミでの露出も一気に増えた。おおむねご意見番的な扱いである。その、いってみればマツコ・デラックス的、ドラァグクイーン的ご意見番言説にはひとつの特徴がある。
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ちょうどダイアナ・エクストラバガンザの発言がネットニュースに取り上げられていた。ご紹介しよう。
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【女装家のダイアナ・エクストラバガンザが銀座ママの指摘に苦言】
(「トピックニュース」2017年4月29日配信)
《28日放送の「バラいろダンディ」(TOKYO MX)で、女装家のダイアナ・エクストラバガンザ(41)が、銀座のクラブママに苦言を呈した。
番組では、「銀座ママが教える『偉くなる飲み方』」と題し、雑誌「PRESIDENT」の記事を取り上げた。記事では、銀座ママが「ストレス解消のためのお酒を飲まない」「遠慮する部下にも気配りができる」などの男性客は、偉くなると指摘している。
こうした銀座ママの言葉が紹介されると、ダイアナは「店側の人間が言っちゃいけませんよ!」と声を荒げ始めたのだ。そして、「お店が暇な日にシャンパンを開ける」といった銀座ママの言葉に、ダイアナは「こんな勝手な話ある?」と呆れてしまう。また「ストレス解消のためのお酒を飲まない」には、ダイアナが「(客は)何しに(お店に)行っているんだ」「おかしいって!」と失笑する。
すると、司会の島田洋七も「銀座のクラブなんか出世した人しか行かない」「(銀座ママは)店のために言ってるだけやで」と同調し、ダイアナは「こんな凄い客いませんよ」と、最後まで声を荒げていた。》
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うむ。近ごろネットニュースお得意の“苦言”である。
【フジ亀山社長が菊川怜祝福 「祝 脱・独身」には苦言】(「スポニチアネックス」2017年4月29日配信)である。
【小島慶子「感じ悪い」 菊川怜の祝・脱独身にかみつく】(「日刊スポーツ」2017年4月28日配信)というのもあった。
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なんだかなあ。菊川怜(39)本人がさあ、独身から脱出したいと願っていてそんな気配をつね日頃から醸していたんだろうから、だからスタッフがちっちゃな垂れ幕にそう書いたって別に問題ないんじゃないの、それをなにも関係ない連中が横から出てきてガタガタいわなくても。え? 社長? あ、いまのなかったことにしてくれる? (buおっと間違いたby梅沢富美男まがい)
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ダイアナ・エクストラバガンザがいっていることはまさにその通りで、フジテレビの社長や小島慶子(44)よりはずっとマシである。少なくともこの記事は、大日本プロレスの創業者であり現役レスラーでもあるグレート小鹿(75)が実は「こしか」だったという『デイリースポーツ』(2017年4月28日配信)の記事よりは中身がある。
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しかし、それにしてもダイアナ・エクストラバガンザがいっていることはあまりにもあたりまえである。あたり前であるからくだんの銀座ママ、せっかく取材に協力したのに立つ瀬がなくなってしまいそうなものだけれども、受け取るこちら側としてはあまりイヤな印象は残らない。なぜか? ドラァグクイーンの発言であるからだ、と私は思う。
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そして、ではどうしてドラァグクイーンの発言であれば険も角も立たないのか? と考えると、ドラァグクイーンにはほぼ社会的な属性というものがついていないからではないのか、と思うのである。どこの誰とも、というか得体の知れない異形のものであるから、たとえば利口ぶって、金持ちぶって、いいトシをしてなにをエラそうに、などというひっかかりがすくない。いうほうにひっかかりが少なければ、いわれたほうも怒りの足がかりが少なくなる。
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で、もうひとつ、あまりにもあたりまえな正論をテレビのエンタテイメントとして成立させるためにも、“得体の知れない異形のもの”であることは役に立つ。巨体に厚化粧でフウフウいっている男でも女でもないものは、それだけで間がもつ。
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つまり正論をエンタテイメントとして茶の間にお届けするには“異形”であることが大きな武器なのである。マスメディアも注目されるからといって派手な椿説・奇説ばかりを紹介するわけにはいかず、正論も入れてバランスを調整したい。そこにマツコ・デラックスをはじめとするみなさま方の存在意義がある。と思う。
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ドラァグクイーンの方々は「人として考えてみてどうなのよって話よ」(buおっと間違いたbyマツコ・デラックスまがい)というような発言をよくする。ここがドラァグクイーン、マツコ・デラックス的言説のポイントである。
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「人として」。なにごとか語ろうとするときの最も基本的なテーゼ、決めごとである。人としての最最最最大公約数でもある。人類を代表するくらいの気分である。これがドラァグクイーン、マツコ・デラックス的言説の唯一の拠りどころである。
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相手の身になって考える、自分に置き換えて、当事者の立場で考える、ということである。仕事終りにわざわざ飲みにいって時間をつかって気をつかって金もつかってそのうえ緊張して、じゃたまんないわよねえ。
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こうした言葉でマツコ・デラックスが、ダイアナ・エクストラバガンザが、ナジャ・グランディーバがもっともらしい知見やそれまでの議論を簡単にひっくり返すのを私たちはしばしば目にしてきた。
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“人として”という素人のフラットな視線が、ときとして忘れられがちな倫理や道徳、つまりわきまえ、こころがまえ、おもいやりなどに気付かせてくれることは多い。なにものでもない“得体の知れない異形のもの”だからこそ、人や人間模様の隅々にまで気がいってしまう。
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異形からの視線は、とくに短いレンジでの議論、戦略から個々の戦術に入ってひたすら効率を追求しようとする議論、または議論があらゆる枝葉を切り払ってできるだけシンプルに考えようとする方向に向かったときなどに、とても重要で有効な役割を果たすことが多い。で、それでいったい誰がしあわせになるっていうの? というような。元も子もな〜いヤツ。
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しかしその一方でドラァグクイーン的な混乱というものもある。おそらく、ものごとになかなかプライオリティをつけられないのである。“人として”が唯一のよりどころであるので、“人として”と“人として”がぶつかりあう場面ではなかなか前にすすまなくなる。人にはそれぞれ都合があり、事情がある、という感じになってくると弱い。
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たとえば島の火山が噴火したとする、とりあえず船は一艘しかなく数名ずつしか運べないので、誰から順番に避難させるかを決めなければならない、といったような問題には“人として”では太刀打ちできない。
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あそこんちの息子は喘息もちだし、こっちの嫁はお腹に赤ちゃんがいる。あっちのとうさんは早く会社に行かないと取り引きが停止になるかもしれないといっているし、おふくろが対岸の病院で死にかけている息子もいる、大悟(37)はまた浮気がバレると嫁に殺されるらしい、となってくると収拾がつかない。そう、ドラァグクイーン、マツコ・デラックス的言説は実務にはからきし弱いのである。
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しかし現実社会では、その苦しい判断を任されている、あえて火中の栗を拾わなければならない立場の人間もいるのである。ドラァグクイーン、マツコ・デラックス的言説はときに痛快だけれども、このことを忘れてはいけないんだわよ。(了)
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