堀井憲一郎(60)という人、以前たしかカトリックの地味なクリスマスの話題で記事をピックアップしたことがありました。そのときも指摘したかもしれませんけれども、この方の文章は結局なにをいいたいのかがよくわからなくて困惑されられます。
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さらに取り上げられた事柄に対するご本人の反応がいつもズレているので、そこにもイライラさせられます。あ、ズレているといういいかたが失礼なら、ワタクシとは異なっている、ということにしておきましょう。
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そのうえいつもかなり気張って大向こう受けを狙ったタイトルが付せられているのですけれども、読後には必ず、タイトルは書き終わってから考えましょうよ、な気分に陥ってしまいます。
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われながら意地が悪くて申しわけありません。風邪であまり調子がよくないので八つ当たりのようなものです。
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昨日は読者の方からお見舞いのコメントをいただき、ご教示の通り足を温めましたらだいぶラクになってありがとうございました、にもかかわらず、世間さまからのご恩を仇で返すふつつか者でございます。
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◆『現代ビジネス』2017年6月23日配信
【[堀井 憲一郎]新幹線殺傷事件から考える「誰でもよかった」供述がもたらす「安心」 この供述は意外な役割を持っている】
《 なぜ「同じ言葉」が使われるのか
走行する新幹線の車内で男女が殺傷された事件での、最初の犯人の供述は「誰でもよかった、むしゃくしゃしてやった」というものだった。
この犯人の“コメント”は、事件当日の夜、かなり早い時間に出されている。各マスコミが一斉にそう伝えていた。警察による発表であろう。
「誰でもよかった。むしゃくしゃした」
たびたび耳にする言葉である。
同じコメントを耳にするたびに、私はいつも、犯人はそんな言葉を口にしてないんじゃないか、と想像してしまう。犯罪者が、感情的な犯行直後に(犯行から数時間以内に)自分の犯行動機を語れるものだろうか、というのが根本的な疑問である。
〜 略 〜》
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もうここからワタクシとは感じ方が違います。堀井憲一郎は「私はいつも、犯人はそんな言葉を口にしてないんじゃないか、と想像してしまう」らしいですけれども、ワタクシはたぶん犯人はそんなようなことをいったのだろう、と思います。あるいは取調官の提示した言葉に同意しただけであったとしても、犯人は気持的にそんなに齟齬を感じてはいないはずです。
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なぜなら「誰でもよかった、むしゃくしゃした」という言葉、とくに「誰でもよかった」は、実に上手く純粋殺人の特質を捉えているからです。恨みや嫉妬や憎しみからではなく、金や権力のためでもなく、ただただ殺したいから殺す。その刹那にのみ自分の生が凝集して立ち現れる。
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これはとくにシリアルキラーと呼ばれる連続殺人事件の犯人に対してコリン・ウイルソン(享年82)がしてみせた分析で、それまでのなにがしかわかりやすい犯行動機にもとづいた殺人に対して「純粋殺人」と定義したわけです。「誰でもよかった」はそこのところを単刀直入に衝いています。
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そしてもうひとつ「誰でもよかった」は、自分の優越性を言外に誇示しています。生まれてから22年の歳月をかけてなにものにもなれなかった男が人を殺すことによって、なにがしか夢想のなかの本来の自分になれるという予感がそうさせるのです。「誰でもよかった」と見栄を切ることで怪物に近付ける、と。
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もちろん、犠牲者にとって「誰でもよかった」といわれる以上の冒瀆はありません。犯人はそのことも意識には載せなくても感じているはずです。ここのところ、つまり犠牲者の尊厳、人間としてのあり方をすべて無化してしまう「誰でもよかった」は、いまのようにしばしば犯罪者のクチから出るようになる前はおおいに激しく糾弾されていたはずです。それが徐々に薄れ忘れられるようになってしまいました。
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「誰でもよかった」という言葉の禍々しさが薄れていくのと並行してそれはクリシェと化し、ある種の犯罪のカテゴリーを示すものになりました。なあ、おまえのやったことは誰でもよかったってヤツなんじゃないのか? で通じる状況です。
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逆にこれから犯行に走ろうとする側の人間にも、「誰でもよかった」は手頃で便利な棲家となっています。自分はいったいなにをしようとしているのだろう? なんの関係もない人を殺したいなんて……、と悩まなくても「誰でもよかった」ってヤツだな、で片付けられます。
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つまりこれは犯人にとっても警察にとっても新しい犯罪の発明であったわけです。そして忌まわしいことに、こんなものでも器ができればそれにふさわしい内容が生まれてくるのです。
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ワタクシはここが重要なところではなかろうかと思うわけですけれども堀井憲一郎は違うのですね。 「犯罪者が、感情的な犯行直後に(犯行から数時間以内に)自分の犯行動機を語れるものだろうか」とはおっしゃいますが、「誰でもよかった」はすでにクリシェとして擦り込まれた定型文なのです。思考停止状態になればなるほどこうしたことばがクチを衝いて出てくるでしょう。
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続けて堀井憲一郎の文章を読んでみましょう。
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《 〜 略 〜
ときどき聞く「覚えていない」というのが正直な気持ちのようにおもえる。もちろん、それぞれの場合によって違うのだろうが。
しかし、今回は「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」とすぐに発表された。
警察に準備されたフレーズ
想像するに、取り調べする人が犯人に向かって「むしゃくしゃしたからやったのか」と聞いて、犯人がうなずく、ないしは強く否定しなかったら、そのコメントとして発表する。そういうようなことではないだろうか。
いや、私は警察関係の取り調べの細かいことは知らない。だから具体的なシーンはまったくの想像でしかない。
ただ手続きはどういう形であったとしても、「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」というコメントは犯人の口から出たものではなく、事前に当局が用意した言葉なのだろうと想像しているのだ。おそらく、それはそんなに大きくはずれていないだろう。
そうでないと、いくつもの事件で、まったく同じ「言葉」が使われている理由がわからない。それぞれの犯罪者が、以前の犯罪者と同じ言葉を発し続けるとは考えにくい。警察の仕事のひとつに、ある犯罪の特異性を際立たせない、ということがあるのだろう。それはたしかに社会の安寧に役立っているとおもう。
「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」という定型のコメントは、おそらく必要があって、用意され、同意させられ、発表されているのだろう。
〜 略 〜》
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いやいや、ですから警察が「ある犯罪の特異性を際立たせない」ために「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」という文言を用意し、同意させたのではなくて、そんなものとっくのむかしから犯人や警察官などの、そしてワタクシやあなたのアタマのなかにも腰を下ろしている言葉です。逆に堀井憲一郎のアタマにはそれがないのかフシギ。
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しかし、とはいえ、同様の事件に関するデータはなかなか便利そうなのでとりあえず拾っておきましょう。
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《 〜 略 〜
「誰でもよかった」事件はこんなにある
今年2018年と前年2017年に、「誰でもよかった」とコメントした犯罪を調べてみた。
新聞記事で調べたものをあげてみる。(新しい事件順)
(1)2018年5月17日、名古屋の漫画喫茶刺殺事件。
無職の容疑者(22)は漫画喫茶で二つ隣のブースにいた面識のない被害者を突然襲撃し、果物ナイフで刺すなどして殺害した。容疑者は「いらいらしていた。誰でもよかった」などと供述している。
(2)2018年1月14日、広島でのバス停での2人死傷事件。
広島市安佐北区可部のバス停で二人が刺され、75歳の男性が死亡した事件。無職の容疑者(33)「殺すのは誰でもよかった。死刑になって死のうと思った」と供述。
(3)2017年10月27日、千葉県市原市の駐車場での切りつけ事件。
建設業の容疑者(25)が、市原市姉崎のスーパーの立体駐車場で、乗用車の運転席にいた女性(49)を突然、ナイフで切りつけ、胸や右手の指に軽傷を負わせた。容疑者は女性と面識がなく、調べに対し「誰でもよかった」などと話しているという。
(4)2017年7月27日、墨田区の公園での撲殺事件。
無職の容疑者(35)は、墨田区横網町公園内のベンチで寝ていた被害者(70)の頭を近くにあった照明器具のコンクリートの土台部分を殴り、殺害した疑い。「腹が減って金がなく、誰でもよかった」と説明。
(5)2017年7月17日、神戸市での5人死傷事件。
神戸市北区有野町有野で3人が死亡、2人が重傷を負った事件で、無職の容疑者(26)は「誰でもいいから攻撃しよう、刺してやろうとした」と供述。
(6)2017年5月21日、千葉県松戸市の公園襲撃事件。
松戸市常盤平の金ヶ作公園で5人が切りつけられるなどした事件で、無職の容疑者(34)が「のうのうと生きているやつが許せなかった。殺してやろうと思った」「誰でもよかった」と供述しているという。
(7)2017年2月24日、福島県の高校での職員切りつけ事件。
福島県の県立高で、2年生の男子生徒(17)が40代の男性事務職員を金づちや包丁で襲い、頭部などにけがをさせた。生徒は「誰でもいいから襲ってみたかった」と話したという。
(8)2017年2月18日、愛知県江南市の切りつけ事件。
愛知県江南市で、アルバイトの容疑者(22)が果物ナイフのような刃物で、帰宅途中の男性の顔や腕などを切りつけた疑い。容疑者は男性と面識がなく「人間関係に悩んでいた。相手は誰でもよかった」と供述。
調べて8件でてきた。これで全部ではないとおもう。けっこう多い。
この犯罪は「新しくない」というメッセージ
「むしゃくしゃしてやった」という証言も調べてみた。
(1)2018年3月21日、新宿駅構内でのナイフ振り回し事件。
JR新宿駅構内でナイフを振り回している無職の男(25)が逮捕された。「家族とけんかをして、仕事もみつからずむしゃくしゃした。刑務所へ行きたかった」
(2)2018年2月23日、福岡市で医師を刺した事件。
無職の容疑者(54)、腰痛の診察のため訪れた同区の整形外科医院の診察室で、男性医師の左胸を包丁で刺し、殺害しようとした。「求めていた診断書を書いてくれず、むしゃくしゃした」と供述。
(3)2017年9月29日、姫路市での住居侵入事件。
浴室を覗く目的で民家の敷地内へ入り姫路市市役所職員(44)は「むしゃくしゃしたのでのぞきをしたくなった」と話している。
3つ見つかった。誰でもよかった、より少ない。
「むしゃくしゃした」という言葉は、おそらく日常用語ではないからだろう。
「誰でもいい」という言葉は日常でいまでも使われているが、あまり「むしゃくしゃする」と口にする人を見た記憶がない。「いらいらした」というのは聞くのだが。
でも「いらいらした」という言葉のもつ攻撃性に比べて、「むしゃくしゃした」という言葉にはどこかしら自己完結なところがあって、勝手に自分の中で不満を貯めているさまを表している。やはりそのへんは選ばれた言葉なのだろう。
〜 略 〜 》
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おっと、おいおい堀井憲一郎、どこへいくんだよーう。「『むしゃくしゃした』という言葉は、おそらく日常用語ではないからだろう」なんていうけれどもれっきとした日常用語だよう。あんたの顔を見てるだけでむしゃくしゃする、とかさんざんいわれたもんだよーう。
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「いらいらした」の攻撃性と「むしゃくしゃした」の自己完結性とは、たとえばそれを傍で聞いている人間が、たとえば堀井憲一郎が感じるプレッシャーの強弱の話であって、「いらいらした」のでケーキを1ホール食べるお嬢さんもいれば「むしゃくしゃした」から窓ガラスを割って歩くあんちゃんもいるわけです。どちらかが攻撃性をより強く喚起するかということとは直接には結びつきません。
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さらに、にもかかわらずさまざまな困難をはね除けて、堀井憲一郎の考察は続きます。続きますがほとんど意味をなしていません。困ります。まあお読みになってみてください。
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《 〜 略 〜
繰り返し報道されている犯罪者の定型コメントは、警察と報道の了解のもとでやりとりされているはずだ。そして、報道が了解しているということは、それを受け取るほうも(つまり普通の人たちも)定型である意味をわかっている、ということになる。
積極的にわかっている人と、ぼんやりとわかっている人の違いはあるだろうけれど、ニュースを知る人たちの求める方向に持っていかれている言葉だとおもう。
新しいの犯罪もまた、過去の犯罪と同じようなものであった、という確認である。
「安心」するための言葉
犯罪は、怖い。とくに「誰でもいい」という無差別犯罪はとても怖い。自分も標的にされているという怖さである。その恐怖を少しでも少なくするには、いままでと同じであった、というカテゴリー分けがあれば、少しだけれど、楽になる。
今回の事件は、新たな圧倒的な悪の出現であった、というニュースはあまり聞きたくない。面倒がひとつ増えてしまう。だから過去、われわれの社会が遭遇した悪と同じであった、という報道のほうが、同じ聞くにしても少し安心するのだ。
社会の安寧を保つための仕事なのだろう。
犯罪者が、それぞれの個性を発揮してそれぞれの言葉で犯罪を語りだし、それを丁寧に報道したら、かなりまずい事態になる。恐怖が強くなる。そして、奇妙な人たちを刺激しかねない。犯罪はある種の個性の発露ではあるが、しかしそれを認めるのは避けたほうがいい。そういう大人の判断である。
犯罪者が、私だけがやった犯罪である、とおもっているにしても、それに対して、突出した存在である、とは認めない。それが犯罪者を罰する入り口なのだろう。犯罪への意志は社会として全力で挫かなければいけない。だから、いままでに聞いたことのあるコメントしか、語ったことにさせられない。
そういう仕組みなのではないか。
「誰でもよかった」というのと「むしゃくしゃしたから」というの、それぞれよく聞くコメントなのだが、調べたところ、その2つが合わさったコメントは、そんなにはなかった。つまり、よく聞くコメント2つを並べて、犯罪者の心の闇を封印しようとしたようにも見える。
この2つをコメントとして並べられた容疑者は、尋常ではない闇を抱えていたのではないか、とかえって想像させられてしまった。》
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まーよくわからないですけれども、とりあえず世間のみなさまを怖がらせないように従来からある枠にはめて報道しているに違いない、と堀井憲一郎はおっしゃっています。でもって「誰でもよかった」と「むしゃくしゃしたから」でもって「 犯罪者の心の闇を封印しようとしたようにも見える」と。
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いやいや本当に考えなくてはならないのはそういうことではなくて、「犯罪者の心の闇」が「誰でもよかった」という言葉の回路をたどって現実世界に襲いかかってきた、ということなのです。言葉が現実をつくり出してしまう怖さです。
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これを乗り越えるには、堀井憲一郎のいうのとは逆に、犯罪者と犯罪を緻密に分析し、すべてを合理の光に照らしてみせることです。「誰でもよかった」といってはいるけれども、そこには具体的にこういう心理が働いていた、と丸裸にしてみせることです。理解することです。
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少なくとも「奇妙な人たちを刺激しかねない」と危惧するのなら、「この2つをコメントとして並べられた容疑者は、尋常ではない闇を抱えていたのではないか、とかえって想像させられてしまった」というわけもない偶像化へのそそのかしは書くべきではないでしょう。(了)
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