(1)なんだか知らないあいだにAdSenseでパソコン表示される広告に肌色が増えておる。しかし肌色の商品やサービスなど買ったことがない。きっと誰かがどこかで、無料エロサイトを覗いている私をまた覗いていたのに違いない。それが反映されて私のパソコンは肌色づくめになっていく。
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(2)で、仮にその肌色の誘惑に負けて昭和のビニ本の1冊も購入したとする。するとまたどんどんそういうたぐいの広告が表示されて、私のパソコンはビニ本、エロ本の広告に占領されるのである。素敵なのかおぞましいのか、よくわからない。ただ、お前はスケベ野郎だ!! といわれて、ああそうだよ、とシレッと肯定するくらいの厚かましさは身に付く。あくまでパソコン相手の独り言だけれども。
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(3)厚かましくなった私は、肌色に燃える広告バナーを次から次へとクリックし、ビニ本だのDVDだのを片っ端から購入する。「あいだもも」も「ももかりん」も「かわいもも」も「いまいもも」も「みなもともも」も、み〜んなAV女優で「ももゆい」はグラビアアイドルで「ももち」はBerryz工房の嗣永桃子(24)である、ということもわかってくる。
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(4)だがしかし、AVだの生配信だのいっても結局は人間がやることである。ワザには限りがある、もう新しい体位や技巧は発見されないだろう、これ以上のスペクタクルはムリだろう、ということに気がつく。マンネリである。いくらエロ好きでもやはり飽きてくるのである。まあ、ここまでくるには、それでも数年はかかるかのう。
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(5)飽きてしまった私は、SMだのデブだのスカトロだのメッシーだのにも手を出してみる。けれども萎縮するばかりでまったく受け付けないのである。正直な話、悲鳴が上がったり血が出たりするのはほんとうにイヤなのである。あいかわらずパソコンは肌色の広告に占領されている。もうなんだか自分自身にもウンザリである。
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(6)ネット世界、二次元世界に限界を感じた私は、ようやく行動を起こそうと考えるのである。とはいえ知らない女の人にいきなり声をかけるのもはばかられる。友達が極端に少ないので合コンもできない。どうすればいいのであろう? 出会い系サイトには美人がいそうもないし、たとえブスにでもこちらが鼻息を荒くしていると悟られるのはイヤだ。
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(7)私のエロスとパトスをどうすればいいのであろう? ううむ。たいへん切なくなってくるのである。考えてみればこの1週間ほど若い女の人とは話しもしていない。女といえばスーパーのレジのオバサンにひとこと「いいえ」といったくらいだ。どうしよう? 私はどうすればいいのであろう? 仕事も手につかない。仕事中にエッチなことを考えるのは日本人くらいのものだ、というのは本当だろうか? 引き合いに出して申しわけないけれども、イタリアやトルコの人は考えないのであろうか?
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(8)そういえば西村賢太(49)の芥川賞受賞作『苦役列車』だかに、別れた彼女が置いていったパンツをオカズにオナニーをする、という場面があった。パンツは気持ちがいいのであろうか? 小さな布切れではないか。それならいままで買い溜めたアダルトな本だのDVDだののほうがまだマシではないか? 中居正広も(44)『ナカイの窓』(「日本テレビ」2016年3月4日放送)で“結婚よりもDVD”といっていたし。
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(9)しかしオナニーにも限界がある。いくらTENGAがスグレモノだといっても、返事をしてくれるわけでも、ベッドまで歩いてやってきてくれるわけでもない。ああ、いったいどうすればいいのであろう? やはり男として生まれてきた以上は、生身の女とセックスをして子孫を残すようにできているのだ。さっきテレビを観ていたら魚のサケが子孫を残すところをやっていた。なのに人間の私はこんなふうにいまだパートナーに恵まれていないのである。不幸だ。
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(10)不幸から脱出するには、やはり勇気をふるって彼女をつくるしかない、と私は再び決心するのである。オナニーの果ての、もうひとつの自力更生である。そう決心して街を歩くと、非常に緊張する。向うから若い女が歩いてきたとして、ジロジロ眺めるなどはもってのほかである。とりあえずふつうにすれ違うことくらいできなければお先真っ暗である。と、思っているうちに体のほうは意に反して女のほうへヨタヨタ近寄ってしまうのである。これではほぼ変態ではないか、と私はうなだれるのである。
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(11)しかし考えてみれば私だってそんなにイヤな、ダメな男でもない。自意識が少し強いだけで、それ以外は見た目も含めて、少なくともふつうである。そんな私が、なぜ私だけがこんなふうに異性に枯渇しなければならないのであろう? 通りを見ればなにを考えているのかちょっとわからないくらい醜い男でもちゃんと彼女を連れて歩いているではないか。私だけがなぜだ?
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(12)通りのカップルをうらやましがることはない。つまり人間である以上誰でも、どんな醜男でも貧乏でもバカでも、遅かれ早かれどんなカタチであれ、パートナーを見つけて結ばれるようにできているのである。それが自然の摂理というものである。であるならば、その自然の摂理にちょっと力を貸し、自然の意思の実現に貢献するというのも悪いことではないのである。
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さて、ここまで読み進められたあなたは(1)〜(12)のどのあたりでバカだなー、と呆れ果てられたであろう。いや、まだよくわかる範囲、とおっしゃる方は要注意である。これは、最近よく耳にする性犯罪容疑者の「欲望を抑えられず」とか「性欲に負けて」とかいう言葉がどうして出てくるのか、という私なりの考えである。ここに書いていない(13)は、ついに性犯罪実行のパートである。このくらいの段階を踏まないと、「欲望を抑えられず」とか「性欲に負けて」とかいう言葉は出てこないように思うのである。
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私には性犯罪容疑者が「欲望を抑えられず」とか「性欲に負けて」と供述しているということが信じられないのである。それは自らの獣性に敗北してしまったという宣言であって、たいへん恥ずかしい惨めなことではないか。もしそれが語られるとすれば、繰り返しになるけれども、少なくともこうした心理的な段階を踏んでいるはずなのである。いままでであれば。
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欲望を抑えられず」とか「性欲に負けて」という報道は、これはごく最近の傾向で、たとえば去年、少なくとも数年前には、こういう供述をしているとの報道はなかったような気がするのである。「後ろ姿を見ているうちついムラムラとしてしまった」とか「とても可愛いのでつい手が出してしまった」だったような気がする。それを「欲望が抑えられず」とか「性欲に負けて」にまでまとめあげているのはどういったチカラなのであろう?
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取り調べをする警察あるいは検察に「ではこういうことなんだな、性欲に負けたんだな」と一見わかりやすくまとめる傾向がでてきたというのでなければ、おかしな話だけれども、犯罪者、容疑者自身が「欲望が抑えられず」とか「性欲に負けて」という表現を身につけたことになる。そのきっかけとなった事件があったと思うのだけれども、よく思い出せない。高畑裕太(23)の事件の前にあったのである。
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「欲望が抑えられず」とか「性欲に負けて」という表現は、いまどきの小学生が「ボクはそう認識してます」とか「客観的に考えれば」とか一丁前にいうのとよく似ている。よくわかっているようでわかっていない。しかしいったたん言葉が与えられた以上、その概念が息づきはじめて、「欲望を抑えられず」とか「性欲に負けて」という男がきっとまた現れるのである。言葉が先行し、現実がそれにリードされるのである。
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いま、街には「欲望を抑えられず」、「性欲に負ける」心をもった男たちがウロウロしているかもしれないのである。空恐ろしいことである。ほんとうに怖くてたまらない。どうしよう? 男なのにそう思う。マジで。(了)
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