2016年10月2日日曜日

絶対領域の小林麻央が、私をグイグイ追いつめる



1年半ほどブログを書き続けてくると、自然に書き方の方向性みたいなものができてくる。いまのところそれは3つあって、ひとつは、単純に読んでくれる人を楽しませたいという気持ちで書く、もうひとつは知らないことを学び記録するつもりで書く、そして最後に考えをまとめるために書く、である。何回かは主張っぽくなったこともあったけれども、それでもそのためだけに書いたことはないつもりだし、これからもない。



今回は、典型的な「考えをまとめるために書く」である。とはいえまったく白紙の状態から書きはじめているわけではなくて、途中で役に立たなくなるかもしれないけれども、だいたいのメドは立ててある。今回のテーマは、小林麻央(34)に苦しい、である。



さっそくエクスキューズをしたくなる。それほどいまの小林麻央は“絶対領域”である。重篤な病、母として妻としての葛藤、そして考えたくはないけれども背後に死の影も置いているというその事実を前にして、なにをいえるのであろう? いっさいの批判、皮肉は驕慢のすることであり、憐れみや同情はただただ陳腐である。うむ。それならなにもいわなければいいのだけれども、なにか言葉を与えなければ自分自身のなかで折り合いがつかなくなる。こちらも生きているのだ。



もうひとつエクスキューズしてしまおう。臆病者なので。そう、臆病は余計な想像をするからやってくる。私は余計な想像のなかに生きているような人間なのである。たとえば短歌のたぐいである。よく新聞の文芸欄などに載っているのを見たけれども、あの十数本の短歌を一気に読み下すことができなかった。



歌われている事柄を把握し、そこに込められている心情、世界観を読み取り、背景や作者の人となりなどに思いを馳せていると、1作を消化するのにそうとうな時間とエネルギーを費やしてしまうのである。であるから、あまたの作品を精読、選抜し、さらに寸評まで書いている人物はいったいどうなっているのであろうか、とほんとうにいまでも驚異なのである。



夜中の散歩にも同じことが起きる場合がある。集合住宅の規則正しく並ぶ窓の明かりを眺めるときだ。あの窓のひとつ一つに生活があり、揉め事や祝い事や凶事があり、さらに細々とした日々の喜怒哀楽があって、人が生きている、と考えはじめると、圧倒されてほとんどボーッとしてしまうのである。これはそういう人間が書いている文章である。



小林麻央が苦しい、というのは、彼女がこの9月1日にブログ『KOKORO』を書きはじめてから起こったことである。それ以来、頻繁にそのブログに題を取ったネットニュースを見かけるようになった。毎日欠かさず、多い日には1日に4度も5度も。であるから私は小林麻央に苦しい。要するに、まずは小林麻央の話題に出会う頻度と回数の問題である。もちろんメディアが勝手に取り上げているのであるから、これについて小林麻央はいっさい責任がない。



10月2日未明のいま現在出ているタイトルを並べてみよう。いずれも10月1日付の配信である。

◆小林麻央さん手術を受けていた 肺や骨にがん残り「これからが闘い」

◆小林麻央「QOLのため」手術受けていた「奇跡はまだ先にあると信じています」

◆小林麻央、乳がん手術を告白 姉・麻耶は「本当に良かったです」

◆小林麻央、乳がん手術を告白「根治手術ではない」とも説明

◆小林麻央 手術受けたと報告…応援のメッセージ次々に届く

◆小林麻央 手術後の姉・麻耶の愛情に感謝…微動だにできない自分を笑わせようと

◆術後の小林麻央を驚かせた? 姉・麻耶の“ブリブリ発言” 

◆海老蔵、麻央さんの手術に「本当に心の底から手術ができて良かった」

◆海老蔵 麻央「必ず治る」…手術当日涙を我慢「私自身も弱った」



いまざっくりさらっただけでこれだけある。さらに過去の記事がときどき顔を出す。あと小林麻央本人ばかりでなく、ここにあるように夫、市川海老蔵(38)の発言、ブログなども加わる。ブログに書かれた内容がこれだけ頻繁にニュースになるのは、それがよく読まれるからである。イヤないい方をしてしまうと、小林麻央の闘病は人気コンテンツなのである。マストアイテム。それにしても、いくらなんでも小林麻央が多すぎはしないであろうか?



病や死はきわめて個人的な問題である。目を覚ました深夜に独りその恐怖と闘う辛さは本人にしかわからない、たとえ日中はすっかり割り切ってしまったようすで快活にふるまっていたとしても、である。遠藤周作がそう語っていた。もちろん、恐怖ばかりではなくて、人生の底に沈んでいた記憶や感情、思いが思いもかけず浮かんでくることもあろう。ある個人の病や死というものは、絶対にほかの人間には理解できないのである。にもかかわらず人々は読みたがるのである。いや、だからこそ、か?



で、日々の闘病のようすは、むかしは家族などごく限られた範囲の人間しか知りえなかったものである。それがいまはブログに日々綴られている。しかも現在進行中であるから、いつも先が見えないまま文章は閉じられる。あたりまえの話か。



うむ。闘病記はほとんど過去形でしか読んだことがないのである。そういうものだという諒解がいつの間にか自分のなかにできてしまっている。であるから、いい方が悪いけれども宙吊りの緊張感を抱えたまま継続していくのは苦しいのである。それも毎日毎日、頻繁にそれと顔を合わせながら。



小林麻央という人がいま病と闘っているという、日々更新される「物語」は、こちらの「生」を揺さぶる。たぶん、ブログに掲載される文章がきわめて澄明かつ周囲への思いやりに満ちていることも理由だろう。これを自分への喝、励まし、教訓にするとか、あるいは応援の気持ちで読むとかいう方々も多いはずだ。10月1日現在、すでに約5万3000人が『KOKORO』を訪れている。しかし私は苦しいのである。


もちろん小林麻央は読んでもらうことを期待してブログを書いているわけである。であるから、それを読んで反応することは小林麻央の希望にかなうことであり、他人ができるなににも増しての励ましであろう。それで励ました本人も姿勢をただし、毎日に真剣に向き合うようになれば、それはたいへんによい関係である。誰にも文句をいわれる筋合いのものではない。



しかし私はそれらを目にするたびに、オイッオイッ、とせっつかれるような苦しい気分になるのである。それはたぶん、私の心が弱く、汚れきり、そのくせ自己中心的に生きているから、だからである。ここまでの流れではそういうことになってしまう。困った。



しかし、悪あがきではあるけれども、この苦しさの原因はそれだけではないと思うのである。それがどういうものかをいうのは難しい。たぶん「絶対領域」「想像のなかに生きている」「個人的な問題」のなかのいくつか、あるいはすべてであろう。



繰り返しになるかもしれないけれども、私などが苦しくても、また闘病の情報が呆れるほど氾濫していても、小林麻央にはなんの咎もない。逆に本人にしてみればはなはだ迷惑な話であろう。『KOKORO』は素晴しい文章に満ちている。広く一般に公開する勇気もまた称賛に値する。このブログにチカラを貰ったという方々は多いだろう。私などが立ち入る場所ではないということだ、やっぱし。一刻も早い寛解を心よりお祈りする。(了)


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