2016年のノーベル文学賞にボブ・ディランが選ばれた。近ごろ眠たい文学をもう一度叩き起こしてやろうとするかのごとくの刺激的な選択だったと思う。いや目覚めさせてやろうと思っているに違いない。そして、ということは、今回は欧米先進諸国を念頭に置き、その文学状況に照準を合わせた結果の授賞であるということになる。
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世界にはさまざまな国や言語があり、欧米先進諸国標準では評価しにくい素晴しい文学もたくさんある。スウェーデン・アカデミー、今回はそれらはとりあえず置いておいて、欧米先進諸国標準で選ぶということにしたのである。たぶん。別に差別とかいう問題ではなくて、ノーベル文学賞は地域持ち回り制みたいな傾向になっているのである。
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また、最近はこれまで受賞者がなかった国や言語から選ばれることが多い。2000年からこちらを見てみよう。★印がその国で初の受賞者を示している。
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★2000:中国(高行健)
2001:イギリス(V・S・ナイポール)
★2002:ハンガリー(ケルテース・イムレ)
2003:南アフリカ※2人目(J・M・クロッツェー)
★2004:オーストリア(エフルリーデ・イェリネク)
2005:イギリス(ハロルド・ピンター)
★2006:トルコ(オルハン・パムク)
2007:イギリス(ドリス・レッシング)
2008:フランス(ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ)
2009:ドイツ(ヘルタ・ミュラー)
★2010:ペルー(マリオ・ガルバス・リョサ)
2011:スウェーデン(トーマス・トランストロンメル)
2012:中国※2人目(莫言)
★2013:カナダ(アリス・マンロー)
2014:フランス(パトリック・モディアノ)
★2015:ベラルーシ(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)
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西欧優位は揺るぎないけれども、ノーベル文学賞の対象になった国、地域は確実に広がっている。こうした状況で前回のアメリカ人受賞者は23年前、1993年のトニ・モリソンであった。今回アメリカから受賞者が選ばれたのは妥当であろうと思う。ああ、つい先ほどうっかり「ノーベル文学賞の対象になった地域」と書いてしまったけれども、そう、ノーベル文学賞は、はっきりいえばもはや地域の文学賞なのである。世界は広い。これもいたしかたのない方法、割り切りであると思う。
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で、じゃあボブ・ディランでどうなのか? という話である。下馬評で候補に挙げられていた同じアメリカ人の小説家、フィリップ・ロスやドン・デリーロではダメだったのか? である。いろいろとご不満はございましょうが、フィリップ・ロスはぼうっとして青白く、ドン・デリーロは実際の事件の前で青白い。要するに、勝手に推測する今回の選考意図からすれば、むしろもう一度目覚めよ、と刺激を与えられるべき側なのである。
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ボブ・ディランが受賞したことについてはジャンル違いではないかとの批判もさかんである。え? シンガー・ソングライターでもいいの? である。いいのである。言葉で世界と対峙しようとするものすべて文学なのである。と、私は思う。世界をなぞっているだけではダメだけれども。
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作品についても語らなければいけないのであろうのう。辛いのう。後年の作品はなにをいっているのかわからん、とか朦朧としているとかさんざんである。たしかに。しかしかつては素晴しき閃きの人であったのである。「バレンタインデーでも彼女の愛は買えやしない」などというフレーズは思春期の坊主の胸にキンキラリンと響いたのである。
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なものであるから、ミュージシャンとしてのボブ・ディランもライブではむかしの曲に頼らざるを得ないのである。聴衆もそれを期待するし。しかしこれがまた酷いというか激しく崩して歌うのである。8倍速くらいの早口とか。するともちろんもうむかしの面影まったくなし。ボブ・ディランのパートだけ早回し? これにガックシきてしまったファンは多いと思う。
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これについてはたぶん、ただむかしの自分を撫で回すような、傍から見れば自分自身のパロディをやっているようにしか見えない事態に陥ることを避けたいのだと思う。自分自身のパロディ? 松任谷由実とか中島みゆきあたりがその道の大家である。
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なので、いまさら何十年前の作品を聴いても、とおっしゃる方には、2009年発表のスタンダード集『クリスマス・イン・ザ・ハート(Christmas in the Heart)』をオススメしたい。ちょうどシーズンだし。シブさの極み。
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では、海外では今回のボブ・ディランのアカデミー賞受賞についてどのような反応が起きているのであろう? ざっと目についたツイートをまとめてみた。
◆ジョディ・ピコー
「ボブ・ディラン(が選ばれて)私も嬉しい。でもこれって、私もグラミー賞をとれるってこと?」
◆ゲイリー・シュタインガート
「ノーベル賞委員会を完全に理解した。読書は大変な仕事だ」
◆サルマン・ラシュディ
「(ギリシャ神話の吟遊詩人)オルフェウスから(パキスタンの詩人)ファイズまで、歌と詩は密接な関わりを持ってきた。ディランは吟遊詩人の伝統の優れた継承者だ。素晴らしい選択だ」
◆サラディン・アフメド
「これはノーベル賞の新たな方向性であり、ディランはほとんど滑稽に近い米国至上主義と思えるものの出発点だ」
◆ハリ・クンズル
「ブッシュでないという理由で彼らがオバマに与えた賞以降で、最もつまらないノーベル賞のように感じる」
◆ピエール・アスリーヌ
「ディラン氏の名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた」
「今回の決定は、作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだ。だが(文学)作品はどこにある? スウェーデン・アカデミー(Swedish Academy)は自分たちに恥をかかせたと思う」
◆ジョイス・キャロル・オーツ
「傑出した、ユニークな選択」
「心に残る彼の音楽と歌詞は常に、最も深い意味で『文学的』に感じられた」
◆アービン・ウェルシュ
「私はディランのファンだ。だがこれは、年寄りで訳の分からないことを早口にしゃべっているヒッピーたちの腐りかけの前立腺からもぎ取られた浅はかな懐古趣味の賞だ」
◆スティーブン・キング
「ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したことに興奮している。不道徳で悲しいこの時期に素晴らしく、かつ良いことだ」
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私としては、最後のスティーブン・キングの称賛に同意する。あと『トレインスポッティング』で知られるアービン・ウェルシュの批判は、ボブ・ディランがなにかの音楽賞を受賞したというのならわかる。しかしノーベル文学賞はもっと普遍的な価値に着目しているのである。そもそも、こうした安直な世代論めいた言説こそ浅はかであろう。
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ツイートとは別に感動的な文章を見つけたのでご紹介しよう。出ました。アメリカンオトコ、プルース・スプリングスティーンである。自伝『Born To Run』で綴っていたディランへの想いを、今回の受賞を機にあらためてオフィシャル・サイトに掲載したものである。
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■ブルース・スプリングスティーン
ボブ・ディランは俺の国の父だ。『追憶のハイウェイ61』や『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』は素晴らしいアルバムだっただけでなく、俺が物心ついて初めて、自分が暮らしていた場所の真実を見せてもらった出来事だったのだ。そこには闇も光もみな存在し、幻想や偽りのヴェールは脇へと引き裂かれていた。彼は人を無能にしてしまう礼儀正しさや、堕落と腐敗を覆い隠してしまう日々のルーティンに足を踏み入れたのだ。彼が描写した世界は、すべて俺が小さな町で目の当たりにしていたものだった。そしてそれはテレビを通じて俺たちの隔離された家庭に映し出されていたものの、コメントされることはなく、静かに認められていったのだ。
彼は俺にインスピレーションを与え、俺に希望を与えてくれた。彼は他の誰もが、特に15歳の少年にとって、怖すぎて質問できない質問を投げかけてきた。「自分独りでいるのは…どんな気がする?」世代間に劇的なギャップが生まれ、突如、歴史の流れの真っ只中で孤立したような、捨てられたような気分になった。方位磁針は回りっぱなし。心がホームレスになったのだ。ボブは真北を指し示し、アメリカが姿を変えた新しい荒野の中、自分の道を突き進む手助けとして導いてくれた。彼は旗を立て、曲を書き、その時代に欠かせない歌詞を歌った。当時の数多くの若きアメリカ人たちの心と魂を生き永らえさせるために。
ボブがケネディ・センター名誉賞を受賞したとき、彼のために「時代は変る」を歌う機会があった。俺たちはほんの少しの間、ふたりきりで裏口の吹き抜けの階段を下りていた。彼は俺が来たことに礼を言うと「もし君のために何かできることがあれば…」と言ってくれたのだ。俺は「冗談だろう?」と思い、こう答えた。「もうとっくにしてくれているじゃないか」
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おっと、肝心の選考理由を忘れていたのである。以下、スウェーデン・アカデミー サラ・ダニウス事務局長のコメント。
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■スウェーデン・アカデミー サラ・ダニウス事務局長
彼(ボブ・ディラン)は英語文学における素晴らしい詩人であり、伝道者なのです。とても独創的な伝道者です。54年にわたって伝統を体現してきました。それを邁進し、絶え間なく自分自身を再発明してきました。ボブ・ディランは、耳で楽しむための詩を書きます。しかし、それは目で読んでも完璧なのです。これは彼の目覚ましい韻の構成力と絵画的思考力を示す、並はずれた証拠です。歴史を遠くさかのぼると、ホメーロスやサッポーの存在が思い浮かびます。彼らが書いた詩は、聴かれ、演奏され、楽器と共に奏でられるべきものであって、これはボブ・ディランの詩も同じことです。我々は現在もホメーロスやサッポーの詩を読み、楽しんでいます。ボブ・ディランも同様です。よく読まれているだけでなく、読まれるべき存在なのです。彼は歴史ある英語文化における、偉大な詩人です。私も、彼の音楽に以前より感謝するようになりました。今ではすっかり、ボブ・ディラン愛好家です。
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でもって、受賞から丸1日経った10月14日午後9時現在、スウェーデン・アカデミーはボブ・ディラン本人と連絡がついていないらしい。13日夜にはラスベガスでコンサートに出演しているというのに。もしかして受賞辞退か? という噂まで流れている。
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しかし大丈夫。いつもボブ・ディランはちゃっかり貰うものは貰ってきたのである。ロックの殿堂入りからはじまって、グラミー賞、ゴールデングローブ賞、アカデミー賞(主題歌賞)、フランス芸術文化勲章、スウェーデンのポーラー音楽賞、ピューリッツァー賞(特別賞)etc. 。さらに、012年にはオバマ大統領から文民最高位の大統領自由勲章まで授与されている。代理人やコンサートツアー担当者には連絡がついているというし、無問題。にしてもメンドくさいジジイである。
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あとひとつ、毎年この時期になると必ず騒ぎだすハルキストと呼ばれる方々がおられる。年々その数は減っているようであるけれども、来年は必ず、とかまた懲りずに語っておられるのをテレビで拝見したのである。しかしディスっているようにしか見えないのである。
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もうこれ以上、村上春樹に恥をかかせるのは止めにしてはいかがであろう。村上春樹は来年も再来年も、いや永遠にノーベル文学賞など取れないのである。それにこういうこと自体、すでにあまりに俗すぎる。おおっと!! しからばこれにて失礼!!(了)
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