西城秀樹が一昨日(2018年5月16日)夜に亡くなっていたことが昨日発表されました。「バイキング」(フジテレビ)がはじまり、直後の12時12分ごろ千葉県東方沖で起きた最大震度4の地震でスタジオが揺れ、逝去を告げるテロップが流れたのは12時32分でした。
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その直前、スタジオでは日本大学がやらかしたアメリカンフットボールの危険タックルとその後の責任逃れについて話をしていて、一報がもたらされた瞬間、悲鳴とも唸りともつかないざわめきが立ち上がったのが印象的でした。
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地震を前ぶれに訃報なんてカッコいいんじゃない、などと暢気にかまえながら、たいへん申しわけないことですけれども、ワタクシにはスタジオのその反応の大きさが意外だったのです。
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そんなあくまで他人事気分のワタクシは、木曜日レギュラーの薬丸浩英(52)が自分の妻が“西城秀樹の妹”でデビューさせてもらったので、と語りはじめてそういえば薬丸浩英の妻石川秀美(51)も年齢詐称だったよなあ、と勘違いし、年齢詐称は三井ゆり(49←45)で野口五郎(62)んちの嫁のほうだったと気付くまでにしばらくかかりました。
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西城秀樹にも年齢詐称疑惑はつきまとっていて、それはたぶん「恋する季節」でデビューしたときのキャッチフレーズに「ワイルドな17歳」と年齢が入っていたことも大きく影響しているのでしょう。本名の木本龍雄は辰年生まれからきていて、そうすると“ワイルドな20歳”のはず、そしてその詐称は日本に帰化したときに固定された、とかなんとかいう噂までまことしやかに語られていました。
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西城秀樹がデビューした1972年当時の芸能界はまだ経歴詐称などめずらしくもなく、いま振り返えれば事実と虚構が混淆した記紀的な神話的雰囲気の世界でした。経歴をWikipediaで確認してみても、たしかにおやおやと思わせる部分はあります。
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「小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベックで、『おませなガキ』でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした。小学5年生の時にその兄とエレキバンドを結成、小学生ドラマーとして活動した。ベンチャーズ、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、シカゴ、ジャニス・ジョプリンなどの洋楽に影響を受け、1971年のレッド・ツェッペリン広島公演もバンド仲間と観戦。〜」
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しかし小学校3年といえば8歳、1963年です。1963年といえばジェフベックもまだ19歳、無名のバンドをやりつつセッションギタリストとしてあちこちで仕事をしていたころで、彼を一躍有名にしたヤードバーズに加入したのは1965年、21歳のときのことです。
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申しわけありませんけれども、そんなようなわけでこの音楽開眼の物語はワタクシとしては頷けません。そのあとにキラ星のごとく並べられたベンチャーズ、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、シカゴ、ジャニス・ジョプリンという名前も、つまりはロック志向であったことをアピールするための脚色のような気がします。
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またWikipediaによれば
「山陽高等学校生徒時代、ジャズ喫茶でバンド出演時に、たまたま歌唱していたところをスカウトされる。本来、歌手には興味がなかったが、当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じ、スカウトを承諾した。」
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となっていて、年代的(年齢的)整合はとれていても当時の16歳のロック少年の感覚とはズレがあるような気がします。「また逢う日まで」がヒットしたのは1971年ですから、その直前にザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックス、ゴールデン・カップスなどのグループサウンズの時代があったので、反応するならばむしろこちらのほうだったのではないのか、と思うのです。バンド活動もしていたわけですし。
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ここでWikipediaに書かれていないことを推察してみましょう。西城秀樹はスカウトされた当初から「歌謡曲歌手」となることを半ば義務づけられていた、そしてそれを本人もよく承知していた、です。当時の日本の芸能界でグループサウンズ以外にロックを演ることは考えづらかったでしょうし、そもそもスカウトの段階で女の子向けアイドルという既定路線が敷かれていたはずです。
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ですから西城秀樹の公にされている“ロック志向”も、そんな女の子を意識してつくられていったものだったのでしょう。本人のほんとうの志向がどこにあったかは別にして。
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のちに西城秀樹が歌うことになる「情熱の嵐」、「ちぎれた愛」、「愛の十字架」(いずれも1973年)などの一連のオリジナル楽曲は、そうした歌謡曲のフィルターを通したロックで、いささかロックっぽいからこそロック好きには嫌われる、つまりあらゆるジャンルからの剽窃でできあがっている歌謡曲そのもの、といった楽曲です。ロックに未練があればこれを歌うのは辛過ぎます。
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西城秀樹がデビューするのにおいてロックと訣別したのか、それとも“ロック志向”は完全につくられたお話なのか、それはわかりません。
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テレビ番組であの独特の、喉をポッカリ全開にしたような、オリジナルにはあり得ない発声、そしてときどき入れるファルセットで海外のロックをカバーしていた西城秀樹は、そのことをどう考えていたのでしょう。真正ロック少年であったワタクシとしてはほとんど呆れていましたけれども。
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そのようにしてワタクシは歌謡曲、歌謡ポップスみたいなものを歌う軽佻浮薄なアイドルとして西城秀樹を長いあいだ眺めていましたから、恐縮ながら人物としてもそうとう軽薄なお調子者と考えていました。
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しかし2003年、最初の脳梗塞を発症してからの西城秀樹は少しづつそのイメージから乖離していきました。闘病生活を赤裸々に公開し、歌うことになりふりかまわず取り組む姿勢は軽薄なお調子者のアイドルとは違って見えたからです。あれ、なにか違うな、と。年齢を重ねたからというだけでなく、とにかくなにか違う感じを受けました。
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それをこうして訃報を聞くまでは、たぶん彼独特の芸能人としての矜持なのでしょう、というくらいにしか考えてはいませんでした。
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いまは、西城秀樹は、まことにありきたりな表現で申しわけありませんけれども、最期まで忠実に西城秀樹を演じ抜いたのでしょう、と思います。カッコいいとかカッコわるいとかではなく、それで糧を得て生きてきた事実を誇りとするために、歌謡曲歌手・西城秀樹を貫いた感じがします。ですから闘病中のわが身をカメラから隠すこともしなかったのでしょう。
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もし西城秀樹がほんとうにロック少年だったのであれば、彼は病に倒れたことでようやくロックな人になれたのだ、といういいかたもできるかもしれません。
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