2018年4月21日土曜日

まるでゾンビがゾンビに噛み付いているようなセクハラ問題



セクハラされたっていう本人が名乗り出てこなきゃあ、とゴーマンかました麻生太郎財務大臣(77)、あ、これはあまりにあからさまでこの場合の例には不適当か。あ、そうたろう。



この場合はテレビ朝日あたりが適役であろうか。自分ところの社員が財務省の福田淳一事務次官(58)からセクハラを受けたと報告を上げているのになんの対応もとらず、辞任が明らかになった途端、風向きが変わったと読んだか財務省に断固抗議する!! などと喚いている。



でもってテレビ朝日社内ではきっと今日もセクハラが行われるはずである。間違いない(by長井秀和)。セクハラの根底にある女性蔑視はこの国の文化コードにしっかり織り込まれているので、ここで生まれ育った以上誰もが無自覚に加害者になりうる。たとえ女でも。



国技大相撲の“土俵に女を上げるな問題”を見ればよくわかる。それは伝統でありしきたりであるのでおいそれと崩すわけにはいかない、あるいは相撲はただのスポーツではなく神事でもあるので一般の物事と同じように扱うわけにはいかない、という議論がある。



いや、であるからその伝統、しきたり、神事の底に女性を蔑視する考えが流れているのである。なぜむかしむかし、そんな伝統やしきたりや女性を排除する神事が生まれたのか、きっかけができたのか、その理由があるはずである。



それをず〜っと追っていって明らかにし、いやいや21世紀日本ではもう誰もそんなこと信じませんて、といってやらねばならぬのである。それが科学的態度というものであろう。



捕鯨に関しても伝統文化を守れ、という理屈だけで禁止されるいわれはないわ!! と主張される方々がいらっしゃるけれども、それでは弱い。あなた、首狩りには首狩りの文化がありまして、って寄ってこられても全力で突き放すでしょ。ここまでの捕獲なら生態系に深刻な影響を与えない、というエビデンスをもって主張しなければ聞いてもらえない。



アフリカを中心に行われている女子割礼、女性器切除という習慣がある。もともとついているものをムリに取ってしまってもフィジカルな面では弊害しかないはずだがいまでも堂々と行われている。あ、なんでも載っているWikipediaにその目的が羅列してあるので引用しておこう。



〈目的〉

1)大人の女性への通過儀礼。

2)結婚の条件とされている。

3)結婚まで純潔・処女性を保てると信じられている。

4)女性の外性器を取り去り性感を失わせることで、女性の性欲をコントロールできると信じられている。

5)ソマリアでは、「女性は二本の足の間に悪い物をつけて生まれた」と言われており、陰部封鎖させる。



そういえばわが国でもひとむかし前までは童貞の喪失がオトナの男への通過儀礼のようにいわれていた。さらにもうひとむかし前には学校や職場の先輩がその通過儀礼を受けさせるために公認の売春街、赤線に後輩を連れていったりもした。



しかしいまや厚生労働省が公開している「出生動向基本調査」では、20~24歳の47.0%が、35~39歳の26.0%が童貞なのである(2015年)。オトナへの通過儀礼自体、日本にはもうほとんど存在しない。AVパッケージの上には“筆おろし”などという雅な言葉がまだ踊っているけれども。



すまぬ。筆おろしと女子割礼とではまったく話が違う。とくに上記の、3)〜5)は強烈な女性蔑視の上に成り立っている。だからといってこういう習慣をもつ人々の文化をよそ者のワタクシが一概に否定するつもりはない。否定するつもりはないけれども、消えていくべきものであることは明らかだ。



わが国の女性蔑視、そこから生じるセクハラもこうした文化の傷のようなものである。治さなければいけない。だがしかしいまはほぼ日本人全員がこの傷を背負っている。私はセクハラなんか絶対にしませんよ!! といっているそのクチで、あれ? 今日子チャン今朝はすっきりした顔してるねー、とか無自覚にいってしまう。今日子チャン古いけど。



インフルエンザに罹っている人間が隣の人間を、おまえインフルエンザだろ!! と咎めたり、ゾンビがゾンビに噛み付いたりしているようなものである。まずそこのところをしっかり押さえておかないとセクハラ問題は解決しない。そう、なんつーんすか、わが内なるセクハラと女性蔑視、みたいなの。



繰り返すようであるけれども日本の社会はこうした女性蔑視をいたるところに内包してできている。それを克服しようとするならば、この問題に対していつでも十分に意識的でなければならない。



女性蔑視は差別である。そうなのよ。部落・在日コリアン・女性・障害者に対する差別が日本の4大差別とされているのよ。4大差別っていいかたもなんだか立派なことのようで滑稽であるけれども。なので、このまま反セクハラが社会運動として勃興していくとすれば、それは部落解放運動で行われてきた差別糾弾闘争のような色彩を帯びてくる可能性もある。たとえば団交、差別糾弾会で麻生太郎のような人物を吊るし上げたり。



すでにそうした20世紀後半を思い起こさせるムードが見えはじめている。↓





◆『カナロコ』2018年4月20日配信
【〈時代の正体〉記者の視点 黙認しない「#YouToo」と言う】

《【時代の正体取材班=田崎 基】

 〈〜 略 〜〉

問題の本質を理解していないのは私自身もそうだった。思慮を欠いた一言一言は、私がセクハラを受ける側ではないという属性に根ざしているのは間違いなかった。

19日朝、財務省の福田淳一事務次官のセクハラ疑惑について記事を書くため、私は民放の女性ディレクターの携帯電話を鳴らした。



 ―セクハラの被害は受けたことはありますか。
 「それはね。言い出したら切りがない」



 ―ちょっと教えてもらえませんか。
 「いいけど。メールで送ります」



 ―この電話で話してもらえれば、メモを取ります。
 「…」



 一瞬の沈黙。答えに詰まった後、返ってきたのは「そんなの恥ずかしい」だった。



同業のよしみという勝手な甘えも手伝って、ぶしつけに証言を強いたことを悔いた。数時間後、送られてきたメールに愕然とした。



 〈取材相手に「やろうよ。やらないと相性が分からないじゃん」と言われた〉

 〈上司に抱きつかれ下半身を押しつけられた〉



「恥ずかしい」どころではなかった。わいせつ事件と呼ぶべき被害を受けていながら、封印しなければならなかった二重、三重の苦しみを思った。



簡単に口にできるはずがなかった。言葉にするには記憶を呼び起こさなければならない。そして実際に話すという行為は、自分は辱められた、もてあそんでよい存在とみなされたということを自ら再確認する作業にほかならない。


その屈辱を乗り越え、ようやく第三者に伝えることができたとしても、大抵は「よくあることだ」「うまく立ち回れ」などと被害が軽く見積もられる。尊厳が軽んじられ、踏みつけにされるという人権侵害はここでも繰り返される。それが分かっていて、どうして自ら傷をさらすことができるだろう。



電話口で気安く教えてくださいなどと求めた自分の振る舞いに恥じ入るほかなかった。女性たちは沈黙を強いられてきた。そうして被害はなかったことにさせられてきた。黙らせている側にこそ目を向ける必要があった。

 〈〜 略 〜〉


1989年に日本で初のセクハラ訴訟の原告代理人になった角田由紀子弁護士は言った。

「あれから30年近くが経った今、こんなことが起きて本当に愕然する。この間、私たちは性被害や女性の人権問題の取り組んできたはずなのに」



訴訟当時は「セクハラ」という言葉自体がなかった。報じるニュースに胸を痛めた。サラリーマンが笑いながら「そんな細かいこと言っていたら仲良く仕事ができないよ」と街頭インタビューで答えていた。



当時はそれが一方の「意見」とみなされ、メディアが伝えた。笑い飛ばす振る舞いそのものがすべての女性を見下し、人権を毀損しているという自覚すらないままに。



さすがにいまでは「仕事を円滑に進めるためにはセクハラも必要で、いちいちとがめるな」などという発言をおおっぴらに口にすることはばかられるようになった。角田弁護士はだからこそ「社会は少しずつ変わってきたと思っていたが、これっぽっちも変わっていない社会が官僚組織の中枢に生き残っていたことに愕然とする」。




調査方法の撤回を求める署名を始めたのも、声を上げることを許さないという社会を容認できないからだ。「こういう調査方法も許されるのだという誤った理解が世の中に発信されることを止めなければならない」



社会的強者である「男」の側、それも政府という権力から発信される錯誤を打ち消す発信がメディアに求められている。今回、テレビ朝日の女性記者が自らの被害を自社で報じることができなかったことが示すように、旧態依然とした男社会であるメディアがどう報じるかが問われている。記者会見を取材しながら、私はそう感じていた。


 〈〜 略 〜〉


私は自問する。



「そういうお前も、あの男の振る舞いを黙認したではないか」「それほどの問題かと軽視してきたからではないのか」



だからこそ口火を切らなければならない。おかしいことをおかしいと言うことに勇気が必要なこと自体がおかしい。「#MeToo」という苦悶(くもん)の叫びが、不正義がまかり通る社会のゆがみを教えてくれている。



「#YouToo」と言うべきなのだ。あなたのそれもセクハラだ。素通りしているあなたも人権侵害に加担しているのと同じだ。沈黙を強いているのはあなたでもあるのだ。そして、セクハラをする側、見過ごして平気でいられるあなたこそが自らを顧み、セクハラをやめさせる主体になるべきなのだ、と。》





うむ。まさに1970年〜90年代である。ウエットである。いまふうにいえばエモい。しかし現実問題として、性被害や女の人権問題の状況は30年前とほとんど変っていない。もし本気でセクハラをなくそうとするならば、こうした雰囲気をまとっていたかつての糾弾会くらいには一度振り切れなければダメであろう。無定見な人格攻撃も覚悟しなければならない。瞬間風速としてあそこまでいかないと日本の社会は変わらない。と、私は思う。



でもってウエットでエモいがゆえに流行りそうな気もする。とくに社会や体制に大いなる不満を抱えてしかしそれを爆発させるすべをもたずに悶々としている若者たちには、うってつけの突破口になるかもしれない。自分たちで世のなかを動かせる実感を掴めるかもしれない。と夢想する。



このエロジジイ恥を知れ恥を!! 自己批判しろ!! なんつって。でもって内心ではこっち陣営にはカワイコちゃんがいっぱいいるよん、などと喜んでいたりする。



同士よ。新しいピンクのヘルメットで街を歩こう。(了)




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