カタルシスとは、本来の行いではなく、その代わりの行為によって得られる満足のことである。もともとはアリストテレスが『詩学』のなかの悲劇論に、「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」と書き記したことに由来する。なので、この言葉には「浄化」の意味も潜む。
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ひらたく例をとれば、カタルシスという言葉は、マスターベーションでカタルシスを得る、あるいはカタルシスを満足させる、というようにつかう。マスターベーションで浄化されるかといえば、微妙な問題である。
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テレビは盛大にカタルシスを満足させてくれる。前回の旅や冒険やグルメ、人間関係の話もそうである。たぶん悲惨な事故や事件のニュースでも、いくらかはカタルシスが得られているのかもしれない。
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カタルシスを浄化と考えれば、大規模災害のニュースは、まちがいなく怖れと憐れみの感情で多くの人の心を崇高な方向へ導く。
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で、私たちはどんどんどんどん、カタルシスを得ているのである。テレビが普及してからというもの、「ほんもの」よりカタルシス、つまり「にせもの」のほうが多いくらいではないのか? カニは高くて食べられないからいつもカニかまでごまかす、みたいなことになっていないか?
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そこで思うのであるけれども、こんなに「にせもの」が増え、しかも「ほんもの」から「にせもの」、「にせもの」から「ほんもの」への往き来がのべつまくなし頻繁に行われて、人はどうなってしまうのだろうか?
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とにもかくにも欲望は満たされるので、さらに次々、新しい欲望が生まれる、ということはあるかもしれない。「ニセモノ」と「ホンモノ」の区別がつかなくなって、そんなことはどうでもよくなる、ということはありえないだろう。
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たとえがたびたびシモ方向で恐縮だが、先のマスターベーションの例で考えればわかる。未亡人朱美ちゃん3号ならいいセンまでいくかもしれぬ。ああ、そうか。その場合は、どうでもよくないものと、どうでもいいものとがあるわけである。
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いってみれば、私たちはあまりに頻繁にカタルシスを得ることに馴れている。ダブルスタンダードに身を預けて生きているようなものである。教師が実は忌むべきペドフィリアであったなどは、残念ながらすでに耳新しくない。歪んだ欲望でも、そのカタルシスがなんらかの手段で得られていけば、欲望そのものは序々に亢進していく。
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あちらの世界ではタブーだが、こちらの世界ではやりたい放題、なのである。そしてときどき、こちらがやむにやまれずあちらにも顔を出してしまうのである。
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テレビは、きっと人に二重性を与えたのである。「オトナの事情」とよくいう。それはきれいごとではなくて、利害が絡んだ内密にしておきたい類の話である。おおっぴらにすると差し障りがある話である。
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その「オトナの事情」が、それをもち出す人やそこで語られる案件全体の価値やイメージを損なわないで、いまやふつうの事情として通用するのである。「物事にはすべて裏がある」という言葉も常套句であり、常識と化している。私たちはすでに二重性にどっぷりと浸かっているのである。
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もっと大きな話をすれば、実体経済とマネー経済あるいは資産経済という見方もある。実体経済とは、実際にモノやサービスが動くお金のやりとりであり、マネー経済あるいは資産経済とは、お金を商品として売り買いすることである。株だとかFXだとか。
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で、1970年代までは実体経済のほうが遥かに規模が大きかったのである。それが1980年代に逆転し、いまやマネー経済規模は実体経済の数十倍、数百倍といわれているのである。地球全体として。
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だから「博打うちみたいな連中が大金持ちになり、まじめにこつこつ働いている我々はいつまでも貧乏だ」というのは、ほとんど本当の話である。アベノミクスも博打うちを潤しているだけである。
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話は変わるが、「ピンチはチャンス!」だかのフジの27時間テレビ2015が終わった。要するにフジの壮大なコマーシャルだったわけである。しかしピンチなのはよーくわかったが、チャンスの目はひとつもみつからなかったのである。岡村隆史も大久保佳代子も、これが最後の仕事、みたいにしか見えなかったし。
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フジの27時間テレビ2015、なにがダメだったって、企画がすべて古いのである。どれもこれも観たことがあるものばっかりだったのである。結局、この期に及んでさえ、ただ昔の栄華を懐かしげに撫で回しているだけなのである。
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フジの27時間テレビ2015の主な出演者たち。ナインティナイン、EXILE、AKB48、明石家さんま(60)、SMAP……、みんなみんな、すでに最期が見えている連中ばかりである。いったいなんのつもりだろう? お別れ会だろうか?
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27時間テレビついでにナインティナインの矢部浩之(43)の嫁が妊娠したんだとかの発表があった。やることが芸能人である。しかしそんなの関係ねえ。あんなガリガリ女がどうしようが、オレは知らねえよう。
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オレにとっての青木裕子はおっぱいのおっきいグラビアアイドル(38)なんだよう。オレの裕子は、いまはふるさとの山形に帰って子どももいてしあわせなんだよう。そしてオレの場所はあいかわらずどこにもないんだよう。 (了)





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