2016年2月15日月曜日
上西小百合の逆襲!! でもホントはさみしいだけなの〜
上西小百合衆院議員(32)のTwitterが元気である。こういう小型飛び道具の功罪を考えさせられるくらい元気である。元気なのはいいのである。しかし上西小百合、果てしなくブレるのである。立ち位置が微妙に変わるのである。そしてそれが実に頻繁に起こるのである。たったワンセンテンスのなかにでもである。
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ブレる、立ち位置が微妙に変わるということを、どうこういいはじめるとあまりシャレにならないと思うのである。メンドくさいし。それで上西小百合のこの事態を、私は“寂しがり屋”の観点から眺めてみたいと思うのである。観点というほど大それたものでもないが。
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まずは1月24日である。ここでは「人に嫌われるのが嫌だからとか、手を抜くとかするぐらいなら議員を辞めますよ。なった以上は全力です。全力でやるんです」と議員活動への意欲を見せているのである。
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しかし、やはり今回の原稿では余談になるけれども、「人に嫌われるのが嫌だからとか、手を抜くとかするぐらいなら」というこの部分で、すでに微妙に立ち位置が変っているのである。“人に嫌われるのが嫌”ということと“手を抜くとかする”ことは、質がまったく違うのである。
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“人に嫌われる”のには理由があるのである。“手を抜く”のはただの自分勝手。これを2つ無造作に並べたときに、“人に嫌われる”ことは“手を抜く”と同じく、自分勝手、自分だけの問題のほうにずれこんできているのである。したがってなぜ“人に嫌われる”のか、という大事な問題は遠ざけられ、“嫌われてもやる”が正当化された気分になるのである。
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これを上西小百合は意図的でなく無意識に、いつもやってしまっているのである。もちろん「人に嫌われるのが嫌だからとか、手を抜くとかするぐらいなら」と並べても、間違ってはいないのである。2つとも止める理由として間違っていないのである。しかし、こうして並べたいのなら、いくつものことわりをつけなければいけないのである。こういう人と話を噛み合わせるのは、とてもたいへんなことなのである。
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で、1月24日のTweetである。
「マスメディアから、上西小百合が橋下ベイビーズの代表とか言われた事はよくあって、橋下さんもそれを否定していなかった。ならば自分の娘が手に負えなくなったから絶縁って、親としてはどうなんだろう」
これも立ち位置に疑問符がつく発言である。そして次に続くのである。
「橋下さんはすぐ逃げますからね。私と話す度胸はないですよ。私は公開ならいつでも話しますよ。公開なら。まあ逃げるだろうけど」
はっきり挑発である。しかも最後だけデアル体で品がないのである。
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もちろん橋下徹から反応があるわけはないのである。こういうヤツにかかわりあってはいつまでもラチがあかないと承知しているのである。そこで小百合、1月30日には、さらにこうTweetしたのである。
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「てれびをみていてぶんかがないかわりにしばられることもないとおもってなにかかえたいとおもっていしんせいじじゅくにはいりましたいってよかったですしゅうぎいんぎいんうえにしさゆり」(原文ママ)
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翻訳すると「テレビを見ていて文化がないかわりに縛られることもないと思って維新政治塾に入りました。いってよかったです。衆議院議員上西小百合」である。これまたさらなる挑発である。
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この1月30日は「維新政治塾」の開講式があったのである。しかしこれ、脅迫状みたいな全文ひらがなである。見ればわかるか。酔っぱらって投稿しているのではないか、という指摘もあったのだが、しかし酔っぱらってはいないと思うのである。これだけのひらがなを一文字も間違えずに入力するというのは、シラフでも気をつかう作業なのである。少なくとも私には。上西小百合なんだか不良小学生みたいなのである。
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しかしこれでも期待するようなお返事をもらえなかった上西小百合は、ちょっと矛先を変えたのである。今度は杉村太蔵(36)が『サンデー・ジャポン』(TBS、2月7日放送)で清原容疑者をプロ野球から永久追放すべき、と発言したのに対して、同日、こう噛み付いたのである。
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「杉村太蔵氏が、清原(容疑者って言っていいのかどうかわからないので呼び捨てですが)の事を永久追放って言った。世間に出て少しはまともになったかなと思ったけど、所詮馬鹿は馬鹿なのか。タレントになるってこういう事なのかな」
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とうぜん、これには世間からの反応があったのである。よかったね小百合。「『衆議院議員』にしがみついてる貴方がよく言えましたね…」「選挙で選ばれて国民の代表として税金で仕事に就いてる人が、一タレントを馬鹿呼ばわり。この人さすがだわ」といった反応である。
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たぶん心の底の底のほうでは嬉しかったに違いない上西小百合は、2月12日『杉村太蔵さんへ 私の考える“更生”について』というタイトルで、ブログ上で釈明を行ったのである。
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ブログは杉村太蔵に関する部分だけで約1500文字もあるのである。上西小百合、全盛期のASKAのボーカルくらいに粘着質なのである。粘着質なので、ときどき集中力を発揮するのである。しかし立ち位置がフラフラしたまま延々語られてはウンザリするのである。なので、その長文の、杉村太蔵に関する締めくくりの文章だけを紹介しておくのである。
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《政治家が“他人を馬鹿などと言っていいのか”というご意見が多数ありますが、よくないと思います。それでも私は杉村さんのあの発言は馬鹿だと思いますし、お前も馬鹿だろとも言われますが、当然私もまだ馬鹿です。》
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あーもん、あーもん、宮本あーもんである。最後の一文は宮澤賢治を彷彿とさせるポエムである。人に何かを語るのであれば、まずその“馬鹿”を治してからにしろ、と、ついまともに答えてしまいそうなバカである。これに杉村太蔵のほうは「大変、厳しいお言葉を頂いた。馬鹿にされないように頑張ります」(「サンデー・ジャポン」TBS、2月14日放送)だったのである。たぶん動物的な本能で腐臭を嗅ぎ分けたのである。
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結局、私にいわせていただければ、上西小百合というのは、誰かにかまってもらっていないといられない人間なのである。これだけなら“真性かまってちゃん”なのである。バンドのほうは「神聖かまってちゃん」なのであるが、どうやら上西小百合、かまうどころではなくて、叩かれていないと気がすまない真性マゾなのである。おお、考えるだにおぞましい。
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そう、上西小百合のフルボッコキャラを忘れてはいけないのである。2015年9月『上沼・高田のクギズケ!』での惨劇を思い出してほしいのである。まずは番組の300人アンケートで、「嫌い」93%、「興味がない」5%、「好き」2%という結果を突きつけられたのである。
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さらに上沼恵美子(60)からは、「当たり前のように自分は正しいと思いすぎている。その高慢ちきが顔に出ています。今の議席もうちょっと有能な方に譲った方がいいと思います」と決定的なダメ出しを食らうのである。しかし上西小百合、ふらふらした立ち位置でめげないのである。たとえるとすればジャッキー・チェン(62)の酔拳である。Drunk Monkeyである。強くはないが。
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そんな小百合に恵美子も苛立ったのであろう。「声小さい、話長いし、曖昧、弱い感じがする。ちょっと意固地、頑固すぎる、好きじゃない」「税金を納めている人間として頼みますから(辞めて)ということなんです。潔さというのか…」「元々向いていない。政治家には向いていない」と、強烈パンチを乱打、乱打、乱打だったのである。しかし小百合はまったくこたえなかったのである。
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この、テレビを使っての公開マゾプレーは、小百合にとってはたまらない経験だったに違いないのである。もう天神祭の「ギャル神輿」キャンペーンガールなどでは満足できないのである。そんな小百合であるから、放っておけばまた騒ぐのである。とはいえ、誰もかまってやるような人間はいないのである。小百合、このままさらに放っておけば、絶対にまたなにか実行するのである。しかしそれでも放っておけば、やがて息絶えるのである。放っておけばよいのである。
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真性マゾというのは実在するのである。いじめられていないと、あるいはいつもちょっかいを出されていないと自分が保てない人間である。画家、藤田嗣治(享年81)の外見はまさにそれである。外見だけで真性マゾとまでいわれては気の毒である。しかし嗣治、マゾには違いないはずである。
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とはいえ、そんな真性マゾなどという人間は、きっと何百万人に1人なのである。よい子のみなさんは、そんなヤツを見つけた!! などとくれぐれも勘違いしないでいただきたいのである。それはただのイジメである。わかってるか、そんなこと。(了)
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