2016年2月21日日曜日

「殴るぞ!」と叫ぶメリー喜多川のリアル次郎長な人間性





メリー喜多川(89)である。本名、藤島メリー泰子。旧本名、喜多川メリー泰子。ここで取り上げるのはもう4度目か5度目だと思うのである。しっかり精査して1回できちんとまとめろ、といわれればそうなのである。しかし最後に残った謎は難敵なのである。



最後の謎とは、メリー喜多川の、ただの男勝りを超えたベラボーに激しい性格はどのように培われたのか? ということである。以前には不信感の強さや被害妄想などから妄想性人格障害の可能性を指摘したが、それは現状にラベルを貼って整理しただけで、なぜそうなったのか? についてはまったく説明ができていないのである。



そのベラボーぶりは、『文藝春秋』(2016年3月号)の記事、「国民的グループをめぐる25年間の暗闘史
 SMAPを壊した独裁者メリー」(元週刊文春記者:中村竜太郎 筆)にも詳しいのである。



中村竜太郎(52)、週刊文春の記者時代に書いた「日米徹底取材 『アイドル帝国』を築いた男ジャニー喜多川社長の『ルーツ』を追う!」(2011年1月6日号)がメリーの逆鱗に触れ、呼び出しを食らったことがあったのである。以下『文藝春秋』から引用しておく。



《筆者もこの出来事の五年前、週刊誌に書いた記事に関してメリー氏に呼び出された。飯島氏と同じ場所で五時間以上取り調べのように詰問され、「殴るぞ!」と恫喝され、決裂して帰ろうとすると「帰るな!」と怒鳴りつけられた。同じ席には、ジャニーズ事務所の弁護士が同席していた。彼らを従え、記事に激しく反論するメリー氏。筆者としては理不尽としか思えない主張の繰り返しだったが、この凄みがジャニーズ事務所を芸能界のトップに押し上げた原動力かと、痛感したのだった。》



「この出来事」というのは、例の、飯島三智元SMAPチーフマネージャーを恫喝した、『週刊文春』2015年1月29日号のインタビューのことである。それにしても、「殴るぞ!」とは穏やかではないのである。しかもこの当時85歳!! 恐るべしメリー喜多川である。



 

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また、LITERA(2016年2月17日配信)によると、そんなふうにメリーに罵倒された記者は何人もいるというのである。で、“ある週刊誌関係者”の話である。若干長いが面白いのである。



《その迫力はすごくて、大の男でも震え上がってしまいますよ。机をバンバン叩いて、お前、どういうつもりだ、とか、とにかく頭から罵倒しっぱなし。かと思うと、逆に質問攻めにされる。〈中略〉ジャニーズ事務所のタレントの名前を上から順に上げろと言われたり、自分の会社の社長の名前を言ってみろ、とか、社是を言えとか言われるんです。それで、ちゃんと答えられないと、むちゃくちゃ罵倒される。で、逆にこちらから質問をすると、怒鳴り返されてまともに答えてくれない。しかも、それが5時間も6時間も続く。ほとんど軟禁状態で、帰りたくても帰らせてくれない。ほとんどの記者は疲労困憊でボロボロになってしまう》



この世の中に理解できない人間がいるということは、私にとって悪なのである。もし人がわかりあえないものだとしたら、悪をなすのはやさしいのである。受け容れる入れないは別にして、相手の都合がわかれば憎しみや暴力は生まれないのである。あれ、話がなんだか上段の構えである。メリー喜多川は私にとって重い重い荷物なのである。



あらかじめお断りしておくと、メリー喜多川の個人史ですっぽり抜け落ちている期間が合計18年ほどもあるのである。しかも7歳から15歳と、20歳から30歳の、人として最も成長し、またすったもんだありそうな時期なのである。以下、経歴を整理しておくのである。



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【メリー喜多川の略歴】

1926:12月25日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス市に、父、喜多川諦道、母、栄子の長女として誕生。弟に真一(まさかず)、そして次男の擴(ひろむ、ジャニー喜多川)がいる
1933:一家はサンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、帰国。大阪に定着する。メリー6歳
1934:母栄子、京都にて死去。このときメリー7歳
1942:和歌山市の有力者、大谷貴義の庇護のもと、和歌山県東牟婁郡勝浦町「中ノ島」の南紀勝浦温泉に弟たちとともに身を寄せて疎開。父・諦道だけが大阪に残る。メリー15歳
1945:第2次世界大戦、終戦。メリー18歳
1947:「市民権(米国籍)が無くなってしまうから」との理由で、弟2人とともに渡米。メリー20歳
  1952:弟2人が朝鮮戦争に徴兵される
  1954:弟2人が除隊となり、擴(ひろむ、ジャニー喜多川)は日本に、真一(まさかず)はアメリカへ戻る
1957:メリー、日本に再帰国。30歳
     ホステスなど経て、四谷三丁目にカウンターバー『スポット』を開店
1964:擴(ひろむ、ジャニー喜多川)が興したジャニーズ事務所の経理を担当する。『スポット』を閉店
1966:『スポット』の常連であった作家、藤島泰輔(享年64)とのあいだにジュリー景子(49)が生まれる。ただし当時2人は不倫関係にあり、入籍は1972年の藤島泰輔の正式離婚成立まで待たねばならなかった

抜け落ちている7歳から15歳は、母栄子が亡くなってから、大谷貴義の庇護を受けて南紀勝浦温泉に弟達とともに身を寄せるまでの期間、そして20歳から30歳は2度目のアメリカ時代である。



父親の喜多川諦道という人は和歌山県高野山真言宗の導師→高野山真言宗米国別院主監を務めた人物である。しかし、どうやらかなり破天荒な性格であったらしいのである。アメリカからの帰国後は僧侶としての活動もしていないようなのである。結局、1960年代の後半に大阪の居候先で亡くなったとされているものの、葬儀にはメリーもジャニーも参列していないのである。



母栄子が亡くなったとき、下のジャニーはまだ3歳、メリーは7歳、そして2人のあいだに真一である。2人の弟の母親がわりを務めたこの少女時代の経験が、強い性格を育んだであろうことは十分に想像できるのである。なにしろ葬儀にも出たくないほどの父親だったのである。



 

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で、もうひとつメリーの強気をささえたのが1942年、姉弟3人を南紀勝浦温泉に疎開させてくれた和歌山市の有力者、大谷貴義(享年85)である。この大谷家とは、喜多川諦道の両親の代からの縁があり、諦道もまた大谷家を頼って和歌山県高野山に8歳で出家しているのである。また、高野山真言宗米国別院主監となるロサンゼルス行きのきっかけをつくったのも大谷家である。



しかし、なにがあったのか、帰国後、諦道自身と大谷家の交流を示すものは見つからないのである。大阪の街場の寺の住職の世話で職にありついたりしているのである。



で、この和歌山の大谷貴義という人物は、戦後最大級のフィクサーにのしあがっていくのである。とくに福田赳夫(享年90)とのつながりが強く、「福田の影に大谷あり」といわれたそうなのである。代々木上原に1,000坪の豪邸を構え、「裏千家最高顧問」「そごう最高顧問」「松下電器産業特別客員」「産経新聞社顧問」「毎日新聞社筆頭社友」「大阪産業大学名誉総長」などなどの肩書きを有し、三笠宮家とも遠縁になっているのである。



父に代わって、というわけでもないだろうが、その大谷貴義との縁をメリーが受け継いだのだろうと思うのである。南紀勝浦温泉に疎開したとき、メリー15歳。そして敗戦からわずか2年後、20歳のときにまだ十代半ばの弟2人を連れて再度、渡米する勇気と行動力は、大谷貴義を刮目させるに十分だったはずである。



ジャニーズ事務所の副社長としてもっぱら渉外を担当するようになったころヤクザともバリバリにやり合っていたというのも、大谷貴義という超大物の後ろ盾があったからに違いないのである。また、中曽根康弘(97)をはじめとする政財界との人脈も、大谷貴義を通して培ったものだと思うのである。



それと、メリーのベラボーに激しい性格を説明するために引用した『LITERA』の記事のなかに出てくる質問攻め、週刊誌関係者のあいだで"恐怖のメリークイズ"と呼ばれているらしい「ジャニーズ事務所のタレントの名前を上から順に上げろ、自分の会社の社長の名前をいってみろ、社是をいえ、とか」などというのは、どうもヤクザか軍隊の匂いがするのである。



間違えると何度も最初からやりなおさせるのはもちろん、そのたびにヤクザの場合は殴ったり蹴ったりするのである。軍隊では、水を入れたバケツを水平に捧げ持ったままにして、すべて回答できるまで下ろさせない、というのもあるのである。こういうやりかたを、メリー、大谷貴義のところで見知ったような気がするのである。



というわけで、「メリー喜多川の男勝りを超えたベラボーに激しい性格はどのように培われたのか? 」という疑問の答えにはほど遠いのであるが、なんとなく、少しだけ呑み込めたような気がするのである。



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女のいう「殴るぞ!」で連想するのは、ひとむかし前、飯場などで働いていたおばちゃん達である。そんな気性の荒いおばちゃんたちがいたような気がするのである。で、メリー喜多川のことは芸能プロダクションの副社長だと思うからわかりずらいのである。飯場のおばちゃん、あるいははっきり清水次郎長みたいなヤツ、と思うとわかるのである。



一徹といえば聞こえはいいけれども単細胞でアタマに血が上りやすく、身内意識が強く排他的、なにごとも理屈ではなく信と義とチカラで解決しようとする。裏切りには超敏感。どんなに非合理でも、そのときの気分で決めてしまったことは決して曲げない。おお、わかるわかる、わかるではないか。そのままメリー喜多川ではないか。



私が知りたかったのは、ほんとうは「メリー喜多川の男勝りを超えたベラボーに激しい性格はどのように培われたのか? 」ではなく、そんなメリーの性格をどう解釈すればよいのか? であったのである。いま気がついたのである。そして腑に落ちたのである。



メリー喜多川が次郎長だとすれば、近藤マッチ彦(51)は森の石松というところであろう。こういう者同士がお互いを気に入るという気持ちの流れは私には実感できないので、ただただ次郎長と石松なのだ、である。で、清水次郎長の子分は二十八人衆といわれているから、それぞれジャニタレをあてはめていくのも退屈なときには面白いかもしれないのである。



そう、つまりジャニーズ事務所は次郎長一家なのである。SMAP5人のテレビ生謝罪は、一家としてのメンツを誇示するためのものだったのである。世間に対して謝ったわけではないのである。メリー喜多川、義侠心に生きているとは思っていたが、ここまでリアルに次郎長だとは思わなかったのである。ジャニー喜多川はいくところがない? うむ。まあ、次郎長の女房のおちょうということで。(了)




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