2016年2月9日火曜日
写真を撮ったり撮られたり、なにが楽しいの? ロクなことないよー
人物写真を観るのが好きです。顔さえ写っていればなんでも、誰でも愉しく観ていられます。人さまの顔をあーだこーだ批評しつつ思いをめぐらすのは、至福のひとときであります。
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人の顔は、もちろん年齢を重ねるにつれネタの蓄積が増えていきます。しかしたとえそれが赤ちゃんの写真であっても、人間ではなくて生きもの全般にまでステージを広げて観察すれば、割合簡単にいろいろとほどけてくるものです。
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つまり私は、人の顔をおもちゃにして遊んでいる不届き者であります。不届きではありますが、顔にはその人のすべてが現れると考えています。これをふざけて「全顔主義」と呼びます。“主義”というには理論の体系が必要です。しかし、私はかなりアタマが悪いのでまだ手をつけられません。
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まあ、“顔を読む”ということだけでいえば、むかしからの人相観と似たようなことになります。けれども、「全顔主儀」では、好きなコンビニ弁当の果てまで顔だけから読み取らなければなりません。
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しかも現代的な精密さが求められます。たとえば人相観では「あなたお金には一生、恵まれますね」ですむものが、「遺産として残るのは389円」というところまでいかなければならないのです。バカです。
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消しゴム版画家のナンシー関は「顔面至上主義」を唱えていました。でもこれ、ちょっと迂闊なネーミングだと思うのです。人間など別に万物の長でもありませんし、ましてやその顔面が至上のものであるはずなどないのです。ああ、ただ絡んでいるだけですけど。
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そんなようなことで、私は写真を撮られるのが子どものころから大嫌いです。たぶん私が写っている写真は、この世の中に100枚から200枚くらいしかないだろうと思います。また、まわりの人間の顔など見飽きているのと面倒くさいのとで、撮るのも嫌いです。むかしよくいわれたROM(Read Only Member=投稿サイトなどの読むだけのメンバー)、人物写真界のROMというわけです。
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ここまできたら思いきって告白しましょう。実はほかにももうひとつ、写真嫌いの理由があります。人さまの顔に対していつも自分がしているように面白半分で観察されたくない、というほかにそれは、私がいつもニヤニヤしているヤツだからです。
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ニヤニヤ。自分でも止められないニヤニヤ。そんなつもりなどないのに、いつのまにか顔に浮いてしまうニヤニヤ。子どものころから私を捕まえて離さないニヤニヤ。宿痾のごときニヤニヤです。いつも人の裏をかくような、ギャグみたいなことばかりを考えるのがクセになってしまっていて、それがニヤニヤに出てしまうのです。あと、人さまのご尊顔の印象とかも。
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そんな、にやけた顔の写真を観て自分ならどういうだろうか、と考えたら、もう金輪際カメラには近づかないでおこう、と思いますね。逆に、もしもすぐれた俳優のように、人を騙せるほど表情をコントロールできたなら、私は毎日、毎時、自分の写真を撮り続けているでしょう。自意識過剰でナルシシスティックなヤツといわれても気にもしません。それは私の夢です。
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しかし、世の中にはニヤニヤ顔で面と向かわれては心外に感じる人が少なくないわけです。近所の居酒屋ではなんとか気心が知れるところまでもっていけたのですが、街中では思わぬつっけんどんな対応をされたことが何度もあります。
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このあいだは、数回だけ訪れたことのあるオーディオショップでまだ値札のついていない中古のスピーカーを見つけ、値段はいつごろわかるのか? と聞いたら、店主らしき男、仏頂ヅラでモゴモゴいいながらいなくなりました。ニヤニヤのせいで嫌味な客だと思われていたのです。ほんとうはスゴくいいヤツなのに。これからは外出するときにはマスクをしよう、と、本気で思っています。
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で、ここで話の流れとしては、とうぜん「自撮り棒」に移るわけです。この「自撮り棒」の発明、日本人らしいのです。そしてこの発明は、歴史的な必然なのです。なぜならすべからく映像機器の発達というものは、まったく突然で恐縮ですが、エロを記録したい、観たい、観せたい、という欲望を大きな原動力としているに違いないからです。戦争が科学技術を発達させるように。
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それにしても、どうしてみなさんあんなにエロを記録したがるのでしょう? やれ流出しただのリベンジポルノだのさんざん騒がれていても、それでも新しい流出写真は次から次へ出てきます。本能みたいなものなんでしょうか?
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そういえばむかし、家庭用のビデオデッキが市場に出はじめたころ、オマケにこっそり裏ビデオをサービスしていた街の電気店が少なくなかったようです。それ以前には、エロムービーを観ようとすれば8mmフィルムかパラパラ漫画方式の組み写真しかなかったわけですから、これは強力なインセンティブだったろうなあ、と思います。ちなみにそのエロビデオの主役というのは、日本人のポップス系歌手だったそうです。すでに故人になっておられます。
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スチール写真もデジタル化されるまでは、自分でエロを撮影しても現像所に出すわけにもいかず……、でした。それかポラロイド。でもってデジタル化以降、コンパクト化、高画質化の改良は続きましたが、映像機器の本質的な進化というものは、ここしばらく見られませんでした。科学技術はここでもひとつの壁にぶつかっていたのです。
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「自撮り棒」は、そこを鮮やかに切り拓いてみせた真のイノベーション、人類の久しぶりの快挙なのです。ちょっと間抜けな感じもしますが。そういえばデヴィッド・ボウイが主演した映画『地球に落ちてきた男』(ニコラスローグ、1976)では、カメラを向けてピントを合わせたその地点からこちらに向かって撮影をするカメラ、というシロモノが登場していました。しかし現実にはなかなかそうスマートにはいかないものです。
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で、写真といえばもうひとつ、ただいまシーズンオフですけれども、心霊写真です。テレビでもよく特集番組をやっていましたし、もちろんYouTubeにもどっさり投稿されています。ヒマなROMが拝見しますところ、そこに写り込んでいるといわれる霊だかオバケだかにも、国柄、地域性があるようです。欧米の心霊写真に着物姿のオバケはいませんし、日本の心霊写真には、たとえばフィリピンの真っ黒焦げみたいなムルト(Multo)が写り込むこともありません。
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つまり、死後も世界はひとつではないわけです。日本人の霊は日本人同士で仲よく、日本人を脅かしつつフラフラしているようです。そんなわけで心霊写真というものを、私は信じていません。もし霊とかオバケというものがあってそれがカメラに写るというのなら、毎日観ているテレビになぜ映ってくれないのかと思います。
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そんなですけれども、これまでに観た心霊写真といわれるもののなかで、いまも鮮明に思い出せるものが1枚だけあります。それはピーカンの空を写した写真で、電信柱くらいの高さに足が片方、浮いているのです。すね毛まで鮮明な裸の男の足です。
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浮遊する足は、ふくらはぎの真ん中から少し下あたりでスッパリ切れていて、ちょうど押そうとしているスタンプを下から覗いたように足の裏が見えていました。意味不明で、なにか滑稽です。こういうものが案外ほんものなのかもしれないなあ、という気はします。
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それでも、ときどき仕事で一緒になるプロカメラマンたちに必ず質問してみますが、誰ひとりとしてこれまでに不思議なものを撮影してしまった、という人はいません。取材撮影を主にするカメラマンたちですから、毎日毎日少なくとも数百枚の写真を撮り続けています。そんな人たちでも、です。もしかしたら自分の撮影したデータをロクにチェックしないで渡しているという可能性もなきにしもあらず、ですけれども。
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しかしとうぜん、この世の中にまだ知られていないなにものかは存在しています。それが霊とかオバケとかいうものかはわかりませんが、それはもしかすると、極微細な電磁波、音波や低周波などのたぐいかもしれません。ふつうではとても人の感覚やカメラなどでは捉えられないレベルのものが、なにかの弾みで感知されることはあると思うのです。
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たとえば、ついいましがたまでこの部屋に誰かがいた、という“気配”、それから潮騒のなかでの“幻聴”、暗闇のなかの“幻視”で片付けられているもの、それらは実際に極くかすかなものとして存在していて、あるとき感知され、想像力で増幅され、霊またはオバケと名付けられるのではないか、と思います。
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ですからいつか、測定装置の発達が霊やオバケの正体を捕まえるかもしれません。「ガイア仮説」を唱えたジェームズラブロック(96)が発明したガスクロマトグラフィー(電子捕獲検出器、大気中の物質を微細に観測できる)が、レイチェルカーソン(享年56)の『沈黙の春』(1962)に科学的裏付けを与えたように。
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ま、そういうふうに写真嫌いで理屈っぽい私です。しかし、いままでに1枚だけ“怪しい写真”を撮られたことがあります。それはもう十年以上前、ある神社の社殿を背にしてムリヤリ撮影されたもので、ひとりニヤニヤ立っている私の額から頭上にかけてオレンジ色の光が走っています。
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撮影者は「心霊写真だ!!」と喜び勇み、当時テレビで人気だった霊能者のところへ駆け込みました。で「先行きは暗いといわれたっ!!」とよくわからない喜び方をして帰ってきました。いまごろどうしていらっしゃるのでしょうか? 私は当時もいまも、ニヤニヤしながら生きています。(了)
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