富岡八幡宮の殺傷事件について、その舞台が江戸勧進相撲発祥の地ともいわれる由緒ある神社であり、また凶器に日本刀が使われていることなどから、なにかオドロオドロしい溝口正史(享年79)ふう怨念劇のように扱われている感じがある。
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しかし事件の本筋は実に単純で、神社の跡継ぎ争いの末、復権への道を完全に閉ざされた弟・富岡茂永(58)が妻・富岡真里子(49)を巻き添えにして仇敵の姉・富岡長子(56)を殺めた、というものである。復権への道を完全に閉ざされたというのは、今年9月に富岡八幡宮が神社本庁から離脱し、その直後に姉・富岡長子が宮司(いわば神社の最高権力者)の職についたからだ。
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独立した神社となった富岡八幡宮は、今後、約8万社ともいわれる全国の神社を包括する神社本庁の指導・監督を一切受けない。つまり実質的にすべての実権は宮司となった姉・富岡長子に握られたのである。これでは自分(富岡茂永)ばかりか息子の富岡秀之も富岡八幡宮で職に就くことは到底あり得ない。なにしろ30年にわたったお家騒動の果てであるから。
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ただし、神社本庁からの離脱そのものはそれほど特異なことではない。神社本庁自体が長年の権力集中からくる重大な問題を抱えていて、日光東照宮、気多神社、梨木神社などの大神社もすでに離れている。全国の“八幡宮”の総本宮であり、出雲大社や明治神宮などとともに名前が挙がる有名神社・宇佐神社では、神社本庁の介入を嫌う勢力と本庁勢力とが非常に厳しく対立している。
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今年、富岡八幡宮が離脱した際には“2004年の明治神宮離脱以来の衝撃”とまでいわれたそうであるけれども、一般にそれほど大きな話題にならなかったのはそうした背景があるからだ。いってしまえば、またか、という。内輪の揉めごと、お家騒動の最終的解決のために離脱を決めた富岡長子側にとっては好都合であった。ちなみに明治神宮は2010年に復帰している。
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そんなようなわけで富岡八幡宮の事件はそれほど興味をそそられるようなものではない。ここに取り上げたのは容疑者・富岡茂永の長文の遺書を見つけたからで、もしご覧になりたい方がいらっしゃるのであれば、という気持からである。
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遺書は富岡茂永の独善的信念に貫かれ、かつそれを一般にも諒解させようという目論見のもとで書かれたものである。そのため反論を想定して先回りしている箇所も随所に見受けられる。放恣、脅迫容疑による逮捕など自分の過去の失態を上辺だけなりとも自ら明らかにしているのも、世間の指摘に先手を打ったつもりなのであろう。
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あまりに凄惨な結果を生んだ暴力を発動させたそもそもの要因は、甘やかされて育った跡取り息子が孕んでしまった、あまりにも尊大なプライドである。日本刀を振り回すなど、まるで“成敗してくれる”、といった態ではないか。
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で、実際のところは、怪文書やネット投稿などさまざまイリーガルな告発を試みてみたものの実を結ばず、「私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怒霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に崇り続けます。」と姉と自分と妻の死を賭して呪詛の言葉を投げつけるしかなかったのであるから惨めというしかない。
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また、こんな事件を起こせば息子・富岡秀之の立場はさらに悪くなるはずなのにもかかわらず遺書のなかでその将来を案じ、宮司就任を求めているのは、息子に対する思いというよりは、おのれの行動をドラマチックに際立たせるための一種の装飾のように見える。性格が悪いので。それは刃傷沙汰に及ばざるをえないもうひとつの大義、親の本懐であり、富岡家正統の主張である。
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それでは遺書、遺書というよりはまるで逆賊討伐の布告であるけれども、その全文をご覧いただこう。引用は『TOCANA』2017年12月11日配信【〈独占入手・富岡八幡宮〉富岡茂永容疑者が犯行前に送った手紙全文! 富岡長子さんへの誹謗中傷「死後に於いてもこの世に残り怨霊となる」「父は宇宙人と遭遇」】からである。
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原本ではA4版8ページにプリントされているらしいけれども、ここでは『TOCANA』に収載されたページネーションでナンバーをふってある。
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(1)
「ご関係の皆様
富岡八播宮 元宮司 富岡茂永
富岡八幡宮及び富岡家の内紛、お家騒動、歴代宮司(宮司代務者)の数々の不祥事につきま しては、氏子崇敬者を始め、神社界の皆様、ご関係各位に、長期に亘り多大なるご迷惑と、 ご心配をお掛け致しました事、衷心よりお詫び申し上げます。
さて、先ずは約30年に亘り続きました、富岡家の内紛について、その真相を比処にお伝えさせて頂きます。私の姉で現在の宮司(宮司代務者)である富岡長子は、中学生のときから、シンナーや覚せい剤、男遊びなどに溺れ、高校にも行かず、錦糸町の喫茶店等で、ウエイトレスのアルバイトをしながら、家出同然の生活をしておりましたが、20歳の時に喫茶店の客として来ていた国鉄勤務の男性と結婚し、一児をもうけました。しかしその異常なまでに 激しく、乱暴な性格から、子供を捨て出戻って来る事になりましたが、中学しか出ていない姉を雇ってくれる会社もなく、当時宮司であった父の興永が神社の経理をさせる事にしたのです。当時の私は、大学を卒業後、皇學館大學の専攻科を修め、富岡八幡宮の権禰宜でした。(私と姉は1学年違いです)姉は名目上神社の事務員でしたが、仕事は殆ど他の事務員 に任せ、大検の学校やその後、大学夜間部に通っておりました。身内と言う事で、父も上司 である私も黙認しておりました。その頃には、父親の躁うつ病が悪化し、殆ど父が仕事を出来なかった事もあり、私は禰宜から権宮司へと昇進し、実質上、神社の運営を任されていました。そんな中でも、殆ど勤務実態のない姉に肩書を付けてあげたり、給料を他の職員水準より高く出したりと、随分と面倒を見てやりました。【実際は姉の立場と、経理の立場上知り得た私の弱み(交際費)等を悪用し、大声で怒鳴る等の強要・脅迫・恐喝の数々でした。】
(2)
私が神職になりたての頃、父は神社界で非常に評判が悪く、大事なお祭りをさぼったり、1 年に2~3日しか神社に出社しなかったり、神社界の活動にも殆ど顔を出すこともなく、興永の代理で私が神社界の会合に出席した時や、事ある度に、他の神社の宮司から、父の嫌みや苦情を言われていました。私の祖父富岡盛彦は神社本庁の総長まで務めた人間でしたので、いつも祖父と父を比較され、「お前のオヤジは・・・。」と言われ、それは悔しい思いをさせられました。私は、いつか神社庁の庁長になって、富岡八幡宮と富岡家の栄光を取り戻そうと、死に物狂いでした。神道青年会の活動や関係諸団体のあらゆる活動に、出来る限り参加し、神道青年全国協議会の理事や東京都神道青年会の会長を務めるようにもなり、日本一の黄金神興を造り盛大な納受式を執り行う等、徐々に富岡家の力が回復してきました。 元々神主が嫌いで、仕方なく務めていた父は、平成6年夏頃より持病の躁鬱病が悪化し、薬と飲酒の影響もあり幻覚・幻聴に悩まされ、「宇宙人が来た」等と意味不明な事を言うようになり、次第にエスカレートし、ついには、他人の部屋に押し入り、寝ていた赤の他人に小便を掛ける。暴れる等の犯罪行為に及ぶようになり、富岡八幡宮の職員(現在の鹿島神宮の天海禰宜・熱海の来宮神社の雨宮君等)とともに父興永を取り押さえ、精神病院へ入院させたのでした。病院では檻の中に隔離収監され、精神分裂症との診断でした。この事は外部に 一切極秘とし、暫く家族で見舞いを続けていましたが、医師より改善の見込みがない事を告げられ、富岡家存亡の危機でもあり、仕方なく家族会議の結果、父は高血圧で宮司の重責に堪えられないと、総代や氏子、神社界等に発表し、引退させる事になり、急遽私が宮司に就任する事となったのですが、この頃から私の元へ、脅迫文が送られて来るようになり、また 神社庁等にも私を誹謗中傷する怪文書が出回るようになったのです。脅迫文の内容は、「父親を精神病院に閉じ込め、神社の乗っ取りを企み・・・」と、家族と、 ごく一部の職員しか知らない内容でしたので、私は姉の仕業と思い、姉に脅迫状を見せ、今度また脅迫状が届いたら、警察に届ける事を告げると、脅迫状は届かなくなりました。
(3)
私は3ケ月間の宮司代務者を経て、平成7年3月に33歳で正式な宮司となりましたが、66 歳の若さで、ただの隠居では父が可哀そうだったので、私の正式な官司の辞令に合わせて、父興永の名誉宮司の称号を申請しておいたので、私の宮司と父の名誉宮司の就任式を同時に行う事が出来ました。医師より改善の見込みがないと言われていた興永でしたが、精神病院に収監されている間、強制的に禁酒させられ、抗うつ剤の投与等が功を奏し、また宮司の 重責から解き放たれた解放感も手伝い、日常生活に支障のない程度まで回復していたので、 家で通常の生活が出来るようになったのですが、宮司であった頃には、神社の財産で数億円の株の売買を繰り返し、何億もの損失を出し、また総額十億円を超える骨董を購入していた 父にとって、自由に神社の財産を使えなくなった事は非常に不満のようでした。(将来的に、 本殿や社務所の建て替え、結婚式場の建て替え等に莫大な費用が掛かるのに、何ら必要のな い株や骨董に巨費を投じるなど、正気の沙汰ではないので、私が株や骨董の購入を禁止した のです。)また、母親(神社職員)もそれまでは、私的な買い物も経理の長子に命じて神社の経費として処理していたものが、いちいち私に許可を受けて、経費で落として良いものな のか、私的に支払うべきかのお伺いをたてなければならなくなり、非常に不満そうでした。 そうしたことから、次第に父も母も宮司である私に内緒で、勝手に長子に領収書を渡し、長子がそれを私に無断で、神社の経費として処理するようになったのです。私は何となく気づいていたのですが、ロータリークラブ始め、外部の多くの役職を兼ねていて、殆ど留守をする事が多く、多忙を極めていた事もあり、また親兄弟のことでもあり、黙認しておりました。
姉の大学卒業が近くなると、突然青山学院大学の杉浦勢之教授と結婚するから、豪邸(社宅) を建てて欲しいと言われ、大変困惑しましたが、姉が幸せになってくれるなら、と考えた部分もあり、また実際には相当強引に要求され1・2階が独身寮で3.4階が姉夫婦の専用スペースで、3・4階だけ専用エレベーターの付いた相当に賛沢な社宅を建ててやりましたが、 結局姉がそのヒモ男と人籍する事は無く、私も家族も職員も騙されたのでした。姉と杉浦とか云うヒモ男専用スペースが150平米に駐車場もあり、建物だけでも1億2千万円でした。
土地代を含めれば2億5千万円にもなる豪邸です。これはれっきとした詐欺罪です。私が辞任後にその杉浦とか言う教授とは破綻し、姉長子はその後暫くの間、新宿のホストクラブに通い豪遊していたそうです。姉は、私の少年時代の暴行容疑(実際には無罪です)で逮捕された事件(家庭裁判所の審判で無罪になっています)をネタに、暗に私を脅迫し、無理難 題を強要し・恐喝を続けたと言うのが真実です。
(4)
私の最大の失敗は、父の興永を信用して責任役員にした事でした。まさか長年父を補佐し、お家の危機を救った私を騙し、クーデターを画策するなど夢にも思っていなかったからで す。長子は夜間大学在学中に教員免許を取得し、卒業後は教職に就くと言っていましたが、それも嘘で、卒業すると、国学院の夜学に神職の資格を取りに通い始めました。そして長子 の卒業が近くなると、長子が卒業と同時に禰宜(大幹部)にしろと言い始めたのです。実習生・出仕・典仕・権禰宜・禰宜・権宮司と境内掃除から着実に一歩一歩昇格してきた私には到底受け入れられない要求でした。しかも、私には「実習生からやれ、5年したら権禰宜にしてやる」と言っていた興永までが、長子が明階(神職資格)を取ったら、禰宜にしてやれと言い出し、不穏な空気を感じずにはいられませんでした。そしてその私の嫌な予感は的中したのです。私が36歳の時です、当時全国最年少で2級上(紋の入った紫の袴の着用が許 される身分)の辞令を受けた翌日に、青年会幹部の神社等に私を排誇中傷する怪文書が出回ったのです。私は知り合いの警視に相談し、警視庁捜査2課長を紹介してもらい、相談に行 きました。そして、その怪文書や脅迫状を見せ経緯を話すと、2課長は、直ぐに、これは明らかに長子の仕業ですが、ご両親も必ず1枚噛んでいる事を覚悟してください。と言われました。被害届を出すのなら、直ぐに受理して対処しますが、長子の他に両親も名誉棄損・ 脅迫等で逮捕になりますが、それでも構わないと言うのであれば、動きますが、どうされますか?と決断を迫られました。姉と両親が逮捕されれば、神社の名前にも傷がつくし、家族が崩壊してしまうと考えた私は、被害届を出すのを諦め、2課長からの口頭での注意に留めたのですが、これが逆効果でした。そして、その日から富岡家の全面戦争が始まったのです。 姉と妹と両親は、身内を警察に売ろうとした恩知らず、と私を罵り、神社界や氏子達に私を 謙誇中傷する怪文書が大量に出回り始め、それと並行して、長子が中心となり、私を辞めさ せるためのクーデターが画策され、富岡長子・富岡千歳(小林千歳)・富岡興永・富岡聰子・ 丸山禰宜(現在は権宮司)等、私が辞めれば得をする人間対、私と再婚したての妻真里子との戦いと言う構図でしたが、無実とは言え、少年時代の逮捕歴や、長年に亘る長子の盗聴や 盗撮、素行調査等々と、経理伝票の全てを握られ、怪文書の配布や噂話の流布等を実行し、こちらの弱みを握っている、欲に目のくらんだ卑劣な人間達対、家族を信用して、任せていた私とでは、所詮勝負にならないのは明らかでした。中でも許せないのは、神社界に大量にばらまかれた怪文書の件です。普通なら匿名の訓誘中傷文書など、相手にしないのが、社会の常ですが、何と私の両親と長子は、わざわざ東京都神社庁まで出向き、宮西庁長に対し、茂永の怪文書の件で、神社界をお騒がせして申し訳御座いません。あそこに書かれていることは、事実ばかりなのです。と、デタラメが書かれた怪文書を神社界に事実であると、流布した事です。そして、茂永の犯罪が明るみに出てしまった以上、宮司を続けさせる訳にはいかないので、健康を取り戻した、興永を宮司に戻したいともちかけ、その言葉を真に受けた、 宮西氏は、興永らの画策に引っ掛かり、私を神社界から追放する手伝いまでしたのです。
(5)
長子や聰子らが、私と妻を辞めさせて追い出したかった理由がもう一つあります。それは、 私の妻真里子の車いすに乗った障害者の兄の問題です。私が真里子の事を姉や母に話すと、 姉や母は、密かに、真里子の身辺調査をした挙句、障害者の兄を見てきて、「あんなバケモノのような兄弟がいる家の娘を貰える訳がないでしよう!死んでも親戚になんかならないから、諦めて、それに、あそこの家は部落民なのよ!」と、部落民でもない妻の実家を部落 民扱いし、余りにも酷い差別用語を並べ立てたのです。私の母聰子の兄は精神異常者で、男系男子81代続いた海部家も、聴子の兄が精神異常者だったため、現在は聴子の妹の婿養子 が82代を継いでいますが、聰子の家族は、精神異常の長男を生涯精神病院に閉じ込め、社会に極秘にしたのです。そして興永も実際には富岡家の次男で、長男の國臣氏は精神異常で、 富岡八幡宮の境内にある家で、ガス自殺をしています。そのような家系の両親が、障害者に 対する悍ましいまでの偏見を持っていた事に大変驚きました。長子は最近始めたブログで、 障害者のための境内のバリアフリーについて、書いていますが、ブログの9割は嘘と偽善 で、読んでいて、吐き気がします。富岡長子の本当の姿は、週刊実話の記事やインターネッ トで、富岡長子と検索すればわかります。「2ちゃんねるブックマーク」には、実名の富岡長子の他に、深川ちょんご・ちょうこ・ブタ子・ブタ等の名前で書き込みされていますが、 9割は事実です。また、バーニング川端氏の書き込みもすべて事実です。
(6)
一部の週刊誌や報道では、私が辞めさせられたと書かれていますが、真っ赤な嘘です。私は辞めさせられたのでもなく、辞任したのでもありません。長子と、当時崇敬会議長をしていた亀山工務店の亀山会長の罠にはめられ、辞表を書かされたのです。責任役員を巻き込んでの騒動に発展したお家騒動は、長子を親分とする興永・聰子・千歳等と私との間で、収束がつかないまま、3ケ月近く経過したある日、私が信用していた亀山の罠で一気に形勢が変わりました。亀山が私の家に訪ねて来ると、「宮司さん、このままでは、何時までたっても収束しないので、ここは私に任せて頂けないでしようか?必ず上手く収める事をお約束いた します。それについては、申し訳御座いませんが、宮司さんが責任役員宛てに、一旦ダミー の辞表を書いて頂けないでしようか。その辞表を持って、私が各責任役員を説得し、興永を 除いた責任役員会の総意で、宮司さんの辞表を不受理にし、円満解決に持ち込みます。これは、興永以外の責任役員も皆さんが承知をしているので、ご安心ください。」との事でした。 ところが、この話は全て亀山と長子が作った罠で、私の知らないところで、私のダミーの辞表が責任役員等に受理され、その日のうちに、私が宮司を辞めたとの噂が、深川を駆け巡り、 神社界を駆け巡り、ダミーだった筈の辞表がいつの間にか本物にされてしまい、私の辞表に関する責任役員会が開催されることになったのです。その時、私は非常に迷いました。私が 書いた辞表は、あくまでも責任役員会宛てのもので、神社本庁宛てのものではありません。 しかも騙されて書かされた物です。最終的には神社本庁宛ての私の辞表が無ければ法的な効力が無い事を理由に裁判で争えば、勝てる筈だと。しかし、私はまだ良いが、隣に住んで いながら、毎日、舅・始・小站に虐められる妻の事を考え、また、これ以上神社界や責任役 員にも迷惑を掛けられないとの思いで、一定の条件での円満退職に応じたのでした。
(7)
ところが、この一定の条件も、円満退職も全て嘘で、私が辞任すると、次々に富岡八幡宮や親族らに裁判に訴えられ、私達は、その後数年に亘り、裁判漬けにされ、無駄な裁判費用・ 弁護士費用を負担させられた上、その対応のため、就職や起業も出来ないようにされ、更に 長子らは自分たちの卑劣極まりないクーデターを隠すため、直木賞作家の山本一力を使い、 ありもしない私の醜聞を週刊新潮にまで書かせ、私が2度と富岡八幡宮に復帰出来ないよ うに、そして、社会で生きて行けないように、画策したのです。
しかし、世間や一般の氏子や神社界の人間は簡単に騙せても、裁判官は、長子クラスの策士には顕されません。裁判の殆どは、私達が勝利し、要求されていた金銭を支払ったりする事 もありませんでしたが、大きく傷つけられた私の名誉は回復される事もなく、長子らの執拗な嫌がらせが続き、堪忍袋の緒が切れてしまった私は、2006年1月に年賀状の代わりに、「今年中に決着をつける、覚悟しておけ。積年の恨み、地獄へ送る。」等と書いたハガキを 長子に送り付けたのです。そして、脅迫容疑で逮捕されたのです。私を逮捕した深川警察署 のミイダと云う刑事課長は、「普通なら、こんな兄弟喧嘩の延長のようなハガキ1枚で逮捕等あり得ないのだけど、長子さんに上等の酒をご馳走になってしまったので、悪く思わないでくれ。どうせ20日したら、罰金で出られるから。」と言われたのです。そして、担当の検事 (副検事) からも、「このようなケースでの逮捕は異例だ。弁護士さんに貴方の名前で、 長子さんに謝罪文を書いてもらいなさい。何とか私が不起訴にしてあげるから。」と、言ってくれたので、そのようにしたのですが、謝罪文を受け取った長子が、何が何でも、茂永に前科をつけろ!絶対に告訴は取り下げない。と、検事さんにも、わめき散らしたそうです。私は22日間の勾留のあと略式命令で10万円の罰金を支払い、釈放されました。
長子が私を逮捕させた事により、私の逮捕劇は、大々的に報道される結果となり、富岡八幡宮の名前は大きく傷つき、私も社会から抹殺され、インターネットで私の名前を検索すると、 今でもこの時の逮捕記事が出てきます。こんな事になるなら、私の怪文書の件で警視庁捜査 2課に相談に行ったときに、長子も両親も逮捕させておけば良かったと、後悔しきりです。 私は、私を罠にはめた卑劣な奴らを絶対に許しません。死んでもこの世に残り、怒霊となり、 私を罠にはめた奴らと、当時の責任役員とその子孫に崇り続けます。
(8)
インターネットで富岡長子を検索し、富岡八幡宮 宮司代務者 富岡長子様は偉大疑感の記事を読んで頂けば、興永と長子による神社の土地を控取した事実が書かれていますが、この件で大迷惑を被った、本人の私が改めて真相を比処に記します。
【江東区 富岡八幡宮 富岡興永前宮司は自分が勤務していた、宗教法人富岡八幡宮の 借地権 (土地の一部) 120坪を富岡八幡宮より控取し、長女で現在の宮司代務者 富岡長子とその妹の小林千歳 (旧姓富岡)に相続させていた事が、私の妻真里子の告発により発覚し、神社本庁及び神社界で大きな問題となっている。富岡興永前宮司は、虚偽の歴史や、所有している不動産等が全く無い (これも虚偽) 等と記した合意文書なるものを、当時の丸山禰宜(現在は権宮司)にねつ造させ、富岡家は非常に貧しいような、印象を与えるその合意文書を丸山顧宜に持たせ、4人の責任役員宅を訪問させ、事情を良く知らない責任役員等から署名擦印を集めさせたのだ。そして、この借地権120坪(合意文書では100 坪となっていたのに、不思議な事に、いつのまにか120坪の契約にかわっている) の相続税に疑問を抱き、調査に乗り出したのが、国税庁である。富岡長子と妹の千歳は、相続した借地権であるとして、相続税の申告をしたのだが、借地権は控取されたもので、富岡家のものになっていない。として、その部分に対しての相続税は払えない。と、差し押さえ覚悟で、特別国税調査官2名を相手に、徹底抗戦したのが私自身なのです。この私の主張に対し、国税当局が2016年1月13日に私の自宅に来訪してより、半年の年月を掛けて、綿密な調査の上、2016年6月3日に導き出した結果が、合意文書の記載内容に虚偽記載が多く、また、この件についての正式な責任役員会も開催されていない。そして正式な責任役員会の議事録もない事実が確認され、富岡興永氏の不正行為と認定し、私の主張を全面的に受け入れ、私からの追徴課税を断念したのである。なお、特別国税調査官2名の試算によると、借地権の当時 (興永死亡時)の時価相場は8000万円との事。オリンピックの決まった今なら軽く1億円超えであろう。このような事が許されるのなら、全国の神社仏閣は、次々に強欲神主や僧侶に私物化され、やがて消えゆく運命となろう・・・・。ちなみに不正に富岡興永前宮司が取得した借地権は、未だに長女で富岡八幡宮 宮司代務者の富岡長子とその妹の小林千歳が、権利を主張しているとの事である。】
(9)
尚、この件に関しては、合意文書の写しを始め、関係する全ての証拠書類、担当した特別国税調査官2名 (京橋税務署所属)の名刺のコピー等を告発書と併せて、私の妻富岡真里子が 2017年3月に神社本庁及び神社庁に提出しているので、お調べ頂ければ、捧取の全容がわ かります。そして、この件が引き金となり、富岡長子が再度神社本庁から取り調べを受ける事となったのです、富岡長子が率いる富岡八幡宮と神社本庁が大きく対立する事となり、ついには富岡八幡宮が神社本庁を離脱するに至ったのですが、実際には富岡長子の度重なる不祥事によって、神社本庁から富岡八幡宮が追放されたようです。
富岡長子の不祥事は、多くの皆さんがご存知のように、天皇陸下行幸啓の碑に宮司代務者の分際で、宮司と嘘の職名を掘り込み、更には超豪華な500平米もある自分1人用の社宅(時 価4億円)を建て、神社界や週刊誌からのバッシングを受け、この際には東京都神社庁の松山庁長(当時) が調査に来ていますが、社宅の内部を見せるように言われた長子は、ガンとして、内部を見せなかったため、神社庁も長子への不信感を更に強めたそうです。私は権宮司から宮司になるまでの間3ヶ月だけ、宮司代務者の期間がありましたが、これは神社本庁の規定にある研修が終わっていなかったため、研修の一部だけ受ければ良いとの事で、直ぐに、宮司に就任出来ました。一般的にも神社本庁傘下の神社では宮司代務者は研修歴が足りない等の理由でも1~3年が常識で、5年間宮司代務者の者は、生涯宮司にはなれないと も言われています。社家に生まれ、研修も全て終了しているのに、6年以上も宮司になれな かったのは、富岡長子だけでしよう。しかも4回も責任役員会が具申書 (推薦書)を提出したとの事。前代未聞の恥さらしです。神社庁も神社本庁も、富岡長子が如何に薄汚く、あくどい事を繰り返してきたのか、お見通しだったから、最後まで宮司にしなかったと云う事でしよう。神社界では非常に嫌われています。富岡家の、そして富岡八幡宮の末代までの恥さらし、富岡長子を富岡八幡宮から永久追放しましよう。
(10)
富岡家には、富岡秀之と言う立派な、そして正当な跡継ぎがおります。秀之は私の辞職時、 まだ高校生でしたが、高校を卒業すると、国学院大学の神道科2部に進学し、まだ神職の資格がなかったため、昼間は富岡八幡宮でアルバイトとして働き、夜は大学に通う生活を続け、 私の辞任後、宮司に復帰した祖父の興永と聴子が可愛がっておりましたが、秀之の存在は長子にとっては、脅威以外の何物でもありませんでした。宮司の座を狙って、興永を賛きつけ、 私を騙して辞めさせ、興永を復帰させた長子の狙いは唯一つ、興永の後の宮司の座だったからです。やがて秀之と宮司の座を争う事になる事を承知していた長子は、事ある度に、両親を脅し、自分を後継者にするように、公正証書にまで書かせ、更に大学を卒業し、明階と云う官司になれる資格を取得した後も、興永官司の意思も無視して、秀之を神職にもしないで、 アルバイトとして冷遇し続けたのです。当時からいる富岡八幡宮の神職なら誰もが知っていますが、私の辞任後に宮司に復帰した興永は、すべて長子の意思で動かされ、興永はすでにお飾り状態だったのです。興永や聡子は娘の長子に「クソじじい死ね」とか「うるさいク ソババア!黙れ!」等と怒鳴られる始末で、クーデターの大将だった長子の天下となったのです。興永も聴子も長子の策略に参画し、背迫・名誉棄損等の共犯となってしまっていたのですから、そして興永は宮司に復帰させてもらい、聡子も宮司夫人に復帰させてもらったのですから、最早、長子には逆らえない立場となってしまったのです。ですから、秀之の人事に関しても、長子の強固な反対の前に、興永は、なすすべが無かったのです。
また、私の長女の富岡千草も、長子に叩き出され、新宿や上野のキャバクラでホステスをしていましたが、ヤクザとの交流が判明したので、私も勘当しました。
平成22年12月には、再び興永が体調を崩し、長子が宮司代務者に就任したのですが、長子が宮司代務者になって、最初の仕事は、秀之の永久追放でした。長子は、富岡家に出戻って来たときは、経理の事務員でしたが、殆ど出社もせず大検の学校に通っていましたし、その後もまともに神社や神社の事務所で働いた事はありません。現在も週に2~3日しか出社 していませんし、宮司が執り行うべき祭祀も3割程度しか出ていません。そのくせ宮司代 務者となった長子は、早速秀之の勤務状況を、つぶさに記録させ、勤務状況が悪い等の難癖をつけ、自分の秘書のように公私にわたり、自由に使ってきた秀之を懲戒解雇にしたのです。 そしてそれは裁判へと発展し、長子は神社の経費で弁護士を何人も雇い、秀之は興永の資金援助と助言で争いましたが、ついに敗訴し、懲戒解雇が確定してしまったのです。そして長子によって期限を切られ、野良猫のように、神社の社宅からも追い出されたのです。
(11)
私富岡八幡宮 元宮司 富岡茂永は、富岡八幡宮の責任役員・総代・氏子の皆さんに、以下の事を断固として要求致します。
1、 極悪非道極まりない富岡長子を永久に富岡八幡宮から追放する事
2、 即刻富岡秀之を富岡八幡宮の宮司に迎える事 (現在は馬橋稲荷神社 権禰宜) 責任役員会に於いて、富岡八幡宮の宮司は富岡家の人間と決められている
3、丸山聡一は本来権宮司になれる立場にはなく、長子のクーデターに参画し、大恩ある私を裏切り、更に興永・長子等の神社 (宗教法人)からの借地権捧取の共犯(実行犯)でもある事。秀之を裁判にかけ被告にし、金銭を巻き上げたこと。また長子の職名詐称等にも協力し、不正の数々に加担した上に、富岡八幡宮の乗っ取りを企んでいる疑いが非常に濃厚である事。以前、若い男子神職に性的行為を行うなど、神職として、あるいは上司として、あるまじき振る舞いがあった事などを勘案すると、辞めてもらいたいが、今後全身全霊で秀之の補佐をすると云う前提で、今後も権宮司職の続投を認める。秀之がその働きを評価するのであれば、65歳の定年を70歳まで引き上げる事も可とする。
4、その他の事は、すべて富岡秀之・富岡聡子・馬橋稲荷本橋禰宜と相談の上で決める事
富岡八幡宮が神社本庁を離説し、単立となった現在に於いては、神社本庁や東京都神社庁の介入は一切許されないので、富岡秀之・富岡聡子並びに本橋禰宜(馬橋稲荷神社)と相談の上、責任役員会に於いて、以上の事を早急に決議し、必ず実行して下さい。
★もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怒霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に崇り続けます。
★万一、富岡秀之が宮司になれなかった場合は、私が作らせた一の宮と二の宮神興を出す事を今後一切禁止します。もし私の禁に背いて、富岡秀之以外の宮司のもとで、宮神興を出した場合、私は死後に於いてもこの世 (富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、神興総代会の幹事総代とその子孫達を永遠に崇り続けます」
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(8)の冒頭にある
《 インターネットで富岡長子を検索し、富岡八幡宮 宮司代務者 富岡長子様は偉大疑感の記事を読んで頂けば、興永と長子による神社の土地を控取した事実が書かれていますが、この件で大迷惑を被った、本人の私が改めて真相を比処に記します。》
という記述のなかの“記事”は、『週刊実話』2015年1月1日号に掲載された【富岡八幡宮 天皇陛下「冒瀆」した女宮司 本誌差し止め申し立て記事掲載】を指している。
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記事の内容は(8)に書かれている富岡長子の不動産取得に関する疑惑と、2014年に境内に建立した石碑「天皇皇后両陛下の行幸啓記念碑」に当時は宮司代務者にすぎなかった富岡長子が“宮司”として名を掘ったことなど、である。
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文章の最後の部分に署名と拇印がある。
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富岡茂永はかつて富岡家における“小天皇”であった。姉・富岡長子(ながこ)の名前は、たぶん昭和天皇の皇后、香淳皇后の名・良子(ながこ)からいただいている。
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富岡長子の写真を見ても、あるいはこの家族のなかに貴種幻想みたいなものがあったのかもしれないという感じを受ける。脳内ロイヤル。しかしそれを取り扱うのはやはりフィクションにおいてであろう。(了)
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