ひとつの時代が終わった、と同時に時代がまた1歩すすんだ、というような少し不思議な感じがする。近ごろはとんと聞かなくなったフレーズ、「戦後は遠くなりにけり」が繰り返し思い起こされる。野村沙知代(享年85)ご本人には失礼だけれども、ありていにいってしまえばそんな大人物でもなかろうに、と思われるかもしれない。
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しかし私としては1932年生まれの野村沙知代と1926年生まれのメリー喜多川(ジャニーズ事務所副社長・90)が互いに強くシンクロするのである。強烈な自我とバイタリティを頼りに“戦後”から立ち上がってきた強い女のイメージである。そういうひとつの時代の相が私にはつくられているので、戦後がまたひとつ終わったと感じるのである。
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アメリカ生まれのメリー喜多川はまだ終戦直後といえる1947年(当時21歳)、弟2人を連れて再度渡米して自活しながらロサンゼルス・シティー・カレッジを卒業している。いくらアメリカ生まれとはいえ居住したのは7歳までであるから、恐るべき勇気と行動力である。
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野村沙知代は終戦後福島県から上京し、ある意味アメリカと深く結びついた生活を送っている。以下、Wikipedia「野村沙知代」の項からの抜粋である。亡くなったばかりの故人が否定していた過去であるので引用をためらったけれども、野村沙知代が生きた時代を眺めるにあたって必要と思われ、また早々に削除される可能性も高いのでご紹介させていただく。
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《 〈— 略 —〉
野村の学歴は東京都荒川区立第二瑞光国民学校(現在の荒川区立第二瑞光小学校、つまり中等学校)で修了し、その後は旧制福島県立白河高等女学校(現在の福島県立白河旭高等学校)に入学しようとするも、進学を断念し白河市の電電公社に電話交換手として就職。しかし、この仕事をしていた時にミスコンに伊東芳枝名義で出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに地元新聞に写真入りで紹介されているという。これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。
終戦後の数年間には、東京・新橋の第一ホテルで皿洗いのアルバイトなどをしつつ、進駐アメリカ人兵士相手の「パンパン」として身を立てていたという。一方この時期、野村の自著によれば、野村はニューヨーク市にあるコロンビア大学"精神心理学部"を卒業し、同時通訳者になっていたとされている。
その後しばらくしてから、家族に手紙を送ったり、妹や信義を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートやコーラを与えたり、後には妹や信義の学費の援助もするなど、家族関係は悪くなかった。東京での住まいや生活の子細、パンパンをしていることなどは家族に明かさなかったというが、信義によれば、野村の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればパンパンをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったという。
結婚
1957年(昭和32年)、アメリカ軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人であるアルヴィン・エンゲルとの間に、息子・ダン (後の野村克晃)、翌々年にはケニー (同・野村克彦)をもうけた。
〈— 略 —〉》
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ことの是非善悪は別にして、またこの記述が100%信頼するに足るかも横におき、さらには表現のキツさには目を瞑って、おおむね野村沙知代はこのようにして生き抜いてきたのであろうと私は思う。敗戦の痛手から立ち直れず腑抜けのようになってしまった男たちに比べれば、ただただ強いといわざるを得ない。ご本人たちは必死であったとしても。人は生きていかなければならぬのだ。
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野村沙知代もメリー喜多川も、終戦直後を自分ひとりのチカラで生き抜かなければならなかった。2人はその負託に人並みはずれた膂力をもって十分に応えてきた。しかしそれは一種混乱のなかで威力を発揮する性質のものであって、平穏な時代にはしばしば過剰なものとして映ることがあったのである。戦後の女、乱世の女である。野村沙知代とメリー喜多川のイメージがシンクロするのはここのところだ。
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野村沙知代の死でまたひとつの時代が終わった。そしてこれは日本社会がどんどん戦争・戦後という尻尾、アンカーを失っていく最終局面のようにも思える。私には。であるからこれでまったく新しい時代への、過去の戦争のことなど一顧だにしない、忖度しない時代へのスケールがまたひとつすすんだと感じるのである。
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野村沙知代の訃報を伝える数多のネットニュースのなかから、通りいっぺんではなく比較的踏み込んだ書き方をしているものを選んでみた。
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◆『ギャンブルジャーナル』2017年12月8日配信
【野村沙知代さん死去......「絶縁息子」の暴露本や「サッチーミッチー」「脱税」「経歴」など、ワイドショーの「顔」としての人生】
《 プロ野球の阪神タイガースや東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた、野村克也氏の妻で、サッチーの愛称で知られる野村沙知代さんが、8日に亡くなった。85歳だった。
同日2時過ぎ、東京・世田谷区玉川田園調布の自宅から、沙知代さんが意識不明の状態で都内の病院に搬送され、そのまま息を引き取ったという。「ノムさんの奥さん」として知られ、その強烈なキャラクターでも知られた沙知代さんだけに、大きな衝撃が走っている。
克也氏と沙知代さんは1978年に結婚。愛人関係からの結婚だった。その後は90年代からは監督として活躍する夫とともにマスコミにも多く登場し、その毒舌ぶりで大きな注目を集める。克也氏が監督を務めていたヤクルトでも介入云々でたびたびトラブルが起きていた。
その後は、衆院選に立候補したものの選挙公報などに虚偽の経歴を公表していたことが告発される(後に不起訴)、共演した女優・浅香光代との「ミッチー・サッチー騒動」からの脱税事件など世間を大きく騒がせ続けた。ワイドショーの主役の一人だったといってもいいだろう。
しかし、最近は表舞台に出ることはなくなり、体調が心配もされていた。そんな中での今回の訃報である。世間からは克也氏を心配する声も聞こえている。
「沙知代さんといえば、前の夫であるアメリカ人男性との間にできた2人の子どもとの確執、絶縁も注目されていました。アメリカ人男性はすでに自死しており、次男は確執から沙知代さんの暴露本も出しています。豪快なキャラクターの沙知代さんですが、身内とのトラブルとはずっと戦っていたのかもしれません」(同)
よくテレビで見かけた人物が突然いなくなるのは、やはり寂しいものである。心からご冥福をお祈りしたい。》
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さようなら戦後。ご冥福をお祈りする。(了)
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