2018年7月1日日曜日

「隠れキリシタン」の肩身が狭くならないように、お願い!!



6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)がユネスコの世界文化遺産に登録されることが決まりました。おめでとうございます。これには





《 政府は当初、キリスト教解禁後に建造された教会堂の建物を中心に、伝来から約400年の経過を示す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、平成27年1月に推薦書を提出。28年夏の登録を目指した。だが、イコモス(ユネスコ諮問機関)から禁教期に焦点を当てるべきだとの指摘を受けて見直した。新たな推薦書を29年2月に提出し、イコモスが今年5月、登録を勧告していた。》
※『産經新聞』2018年6月30日配信【長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目】



という経緯があったそうです。キリスト教伝来からの400年間をなべて広く捉えるのではなく、テーマをはっきり“禁教期”に絞りなさい、ということですね。たいへんよくわかります。禁教こそが日本におけるキリスト教受容の歴史の特色ですから、それをフィーチャーすることを考えろ、と。



しかしこの点については、当初、政府や行政は禁教期の暗い迫害の歴史を剥き出しで提示することに抵抗があったのだと思います。前後をちょっと甘くコーティングして印象をやわらげたい、みたいな。



そんな今回の世界文化遺産登録についてミスター都市伝説・関暁夫(43)はやはりまたまたフリーメイソンとかイルミナティとかもちだして解説するのでしょうか? デビッド・ボウイのようにグーグルこそイルミナティだ、くらいの気の利いたことをいっていただきたいものですがどうでしょう? ご当地出身のクチビル俳優・福山雅治(49)はどうかなあ?



それはそれとして、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は対象を禁教期に絞ってアピールした結果





《 潜伏キリシタン遺産は、現存する国内最古のキリスト教会の国宝「大浦天主堂」(長崎市)や、禁教期に形成された集落など12の資産で構成。神社の氏子を装ったり、離島に開拓移住したりなど多様な潜伏のしかたを表している。》
※同上





ということになりました。



そこで、ですけれども、“隠れキリシタン”はいったいどこへいってしまったのでしょう? 子どものころどこぞの観光地で「隠れキリシタンの里」みたいな看板をイヤというほど見た記憶がありますけれども、「潜伏キリシタン」は見たことも聞いたこともありません。



白系ロシアの血が混じる隠れ二重瞼(自称)のワタクシとしても、ここはおおいに気になります。潜伏二重瞼では瞼だけが特高警察に捕まって連れていかれそうではありませんか。



潜伏キリシタンと隠れキリシタンの違いは簡単にわかりました。『HUFFPOST』2016年8月31日配信【長崎の世界遺産候補が「潜伏キリシタン遺産」に名称変更へ 「隠れキリシタン」と何が違うの?】からです。





《 『山川日本史小辞典』(山川出版社)の「潜伏キリシタン」の項目では、以下のように説明している。

江戸時代、キリシタン禁制に対して、表面的には仏教徒を装いつつ、密かにキリシタンを信仰し続けた人々。(中略)潜伏キリシタンの中には、キリシタン禁制の高札撤去(1873)以降も教会に復帰しない人々がいるが、江戸時代の潜伏キリシタンと区別する意味で彼らを隠れキリシタンとよぶ。
(『山川日本史小辞典』(山川出版社)の「潜伏キリシタン」より)

長崎市国内観光客誘致推進実行委員会では、「潜伏キリシタン」について以下のように説明している。

江戸時代の初期、外海、浦上、天草などの信徒たちは幕府の摘発を逃れるために表社会では仏教徒として生活し、内面的にキリスト教を信仰する潜伏キリシタンとなりました。天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰の形を形作っていったのです。

江戸時代後期には外海地方にいた潜伏キリシタンたちが五島列島に移住し新しく潜伏キリシタンの集落を作っていきました。明治になって禁教令が撤廃された後も、このような潜伏時代の信仰形態を継承した人々を、かくれキリシタンと呼んでいます。

『ブリタニカ国際大百科事典』などによると、江戸時代の潜伏キリシタンは、土地の習俗や神仏信仰などと結びついたことで次第にキリスト教の教義から離れ、独自の信仰へと発展していった。そのため、明治以降にキリスト教の禁教が解かれ、再びカトリックの宣教がなされても、カトリックとは一線を画し、独自の信仰様式を継承した人々が残った。これが「隠れキリシタン」と呼ばれる信仰だ。

宗教学者の宮崎賢太郎・長崎純心大学教授は『カクレキリシタン オラショ―魂の通奏低音』の中で、「現在のカクレキリシタンはもはや隠れてもいなければキリシタンでもない。日本の伝統的な宗教風土のなかで長い年月をかけて熟成され、土着の人々の生きた信仰生活のなかに完全に溶け込んだ、典型的な日本の民俗宗教のひとつ」との立場から、隠れキリシタンを信仰する人々を「カクレキリシタン」と片仮名で表記している。現在でも長崎県の生月島や熊本県天草などで、その教えを信仰する人々がいる。》





うむ。「現在のカクレキリシタンはもはや隠れてもいなければキリシタンでもない。」という言葉は重いです。そして「隠れキリシタン」は現在進行形のお話であって決して過去の“遺産”ではありません、ということですね。抑圧・弾圧によってひとつのキリスト教という宗教がカタチを変え分裂し、その一方も土着の“民俗宗教”となっていまも存続している。



それはそれでとても自然なこと、ともいえますけれども、神さま=イエス・キリストはいったいどのようにお考えになるのでしょうか? わかっておりますとも。答えは“沈黙”でございましょう。



はい。痛いのや苦しいのやメンドくさいのがぜーんぜんダメなワタクシは、この機会に遠藤周作(享年73)の『沈黙』(1966)を読み、マーチン・スコセッシ(75)の『沈黙(Silence)』(2016)を観て励みたいと存じます。なにに励むのかは不明ですけど。(了)






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