2016年9月5日月曜日

高畑淳子は母親業を否定されたらどうやって生きていくのか?



以前、当ブログで「高畑淳子劇場のはじまり」と書いた。強姦致傷という息子の犯罪の深刻さを置き去りに、同情に満ちた“犯罪者の母”、高畑淳子(61)の“母もの”、苦闘の物語ばかりがクローズアップされていくのだろうと思ったからである。しかし9月に入った途端に暗雲がたれ込めてきたのである。しかもこの暗雲は真っ黒である。まずは謝罪会見の評価が一変している。



たとえば「一世一代の大舞台というか、謝罪会見の歴史に残る、3本の指に入る、素晴らしい会見」(芸能記者・松本佳子)というこれ以上ない賛辞が8月30日の『バイキング』(フジテレビ)で送られたかと思ったら、9月4日の『上沼・高田のクギズケ!』(読売テレビ)では、「ほんまに過保護が服着てしゃべってる感じしました」、「芝居がかっている」、「息子にホンマに怒ってない」である。



この間、9月2日には『とくダネ』(フジテレビ)が、1日に高畑淳子が主演舞台『雪まろげ』の稽古を本格的にスタートさせた話題を取り上げ、共演者との顔合わせで「このけいこ場が私にとっての“避難所”になります」と発言したことに注目している。



「(外部に)漏れると思わなかったんだろうけど、被害者にとっては嫌な言葉」(小倉智昭、69)。「被害者を置き去りにして自分たちの論理で進んでいるとしか思えない。強い違和感を感じる」、「一方的に加害者側のコメントが出る。避難所だとか“被害者とされる方”とか、かなり傷つくコメントだと思う。それが連日繰り返されたら、一生癒えない深さの傷になってもおかしくない」(経済ジャーナリスト・木暮太一、38)といった具合である。



そうそう、3日放送の『胸いっぱいサミット』(関西テレビ)でも、東国原英夫(58)が、高畑淳子が舞台で主演を務めることを「私の贖罪(しょくざい)」と表現したことに疑問を呈したのである。「ギャラもらってるんですよね、仕事ですよね」である。さすがにどんなネタにでもすぐに飛びつく、早い、安い、しかし小さい東国原英夫である。



高畑淳子(61)の謝罪会見は8月26日朝であったから、ほぼ1週間でその評判は天から地に堕ちたのである。事件の被害者の存在に改めて気がついた、というとひどく間抜けだけれども、メディアが、謝罪会見直後の、涙にほだされ熱に浮かされた状態からいちおうの冷静さを取り戻したのはよかったのだろうと思う。そしてこれはとてもめずらしいことである。


つまり世間が事件の被害者への同情を忘れていなかったということである。そして高畑淳子の「謝罪」に、被害者本人への意識が驚くほど薄いと敏感に感じ取っていたのである。これでは裁判のなりゆき、高畑裕太(22)側の対応のしかた次第では、総叩きにもなりかねない。



“総叩き”というのは、息子もひどいが母親もひどい、という世論になるということである。あまりの親バカが高畑裕太というロクでもない人間をつくってしまったのだ、この親にしてこの子あり、である。よくいわれる「成人した子どもの犯罪に親は責任があるのか?」とか「親が謝罪する必要があるのか?」という議論がキレイごとでバカバカしく見えてくるのである。



親に責任があるかないかなど、一概に決めつけられるものではないのに決まっているのである。責任がある場合もあるしない場合もある。世の中いいヤツもいれば悪いヤツもいる。どんなに立派な人格者が厳格に躾けてもふしだらになる娘はいるし、嫌われ者の飲んだくれオヤジの娘がオリンピックで金メダルを取ることもある。ケース・バイ・ケースである。



そんなことは先刻みなさんご承知なのである。そのうえで、メディアとしてはニュースネタになる、金メダルの場合は所属競技団体としては宣伝材料にしてもっと盛り上げていきたい、などという損得勘定が働いて、そこでやりすぎという問題が起きてくる。それだけのことである。



であるから、「成人した子どもの犯罪に親は責任があるのか?」という議論は、メディアのやりすぎではないか? という議論を覆い隠すための役割しか果たしていないように思えるのである。視聴率が取れそうなのでとりあえず叩きたい放題叩きますが、果たして「成人した子どもの犯罪に親は責任があるのか?」、である。すり替えである。



さらに子どもが同じような悪さをしても、相変わらず肌艶よくふてぶてしい態度の親もいれば、心痛のあまり卒倒寸前の高齢の親もいるのである。伝えるメディアとしては、取り扱い方をその場その場で常識的に判断しなければならない。



常識的とはいってもその都度のデリケートな判断であるから面倒くさいし、自主的な判断をすれば、あたりまえのことだけれども、批判を受ける可能性もある。それが厄介だから「成人した子どもの犯罪に親は責任をとる必要があるのか? ないのか?」と、いっそのこと単純に線引きをしてしまいたい気分も透けて見える。



「成人した子どもの犯罪に親は責任があるのか?」という設問に正面から答えるとすれば、Yesだと思う。責任は、その犯人の周囲にいた人間すべてにある。だから親にもあるということである。いってみればその程度のことである。ここから、それぞれの事情によって責任の濃淡が別れていく。



高畑裕太の場合は高畑淳子はもちろんだし、以前にも書いたけれども、高畑裕太の所属プロダクション「石井光三オフィス」にも責任がある。もともと発達障害が疑われるなど素行にちょっと変わったところがある若者に整形手術まで施して芸能界へ送り込んでいたのである。グロテスクである。俳優という社会的影響力の大きな立場を軽く見すぎている。



さらに高畑淳子についていえば、結局、自分たちの生き残りの道しか考えていないようである。被害者への「贖罪」が舞台で主役を演じることなどというのは、まさに都合のいい戯言、噴飯ものである。なにをいおうとなにをしようと、その先には自身の復活を見ている。



しかし、被害者の心身の痛手は取り返しがつかないのである。こうした、親バカにはつきものの度し難い鈍感さが、今後、高畑淳子自身を苦しめていくのだろうと思う。あ、そうか。それはそれで「高畑淳子劇場」はまだまだ続くのか。(了)



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