ビートたけし(70)の小説『アナログ』は、「お互いに会いたいという気持ちがあれば、絶対に会えますよ」っつって素性も連絡先も知らず週1で進行する純愛物語なのだそうだ。
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「お互いに会いたいという気持ちがあれば、絶対に会えますよ」などという現実にはあり得ないセリフの古めかしさが菊田一夫(享年65)脚本のラジオドラマ『君の名は』(1952、not「君の名は。」)を思い出させてなるほどアナログである。
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注釈も兼ねていい替えると、ビートたけしは「お互いに会いたいという気持ちがあれば、絶対に会えますよ」という立ち上がりのこの陳腐なセリフで、これからはじまるのはファンタジーなのだと宣言している。
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ああそうか。そもそも『アナログ』というタイトルもそのあたり、小説としての結構を示すためにつけられているのか。と私は思う。いま思った。これは古いロマンチックな恋物語なのです、と。それでなければいくらなんでもダッサすぎる。
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映画「愛の嵐」(1973)、「ベニスに死す」(1971)、「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)などで知られる俳優のダーク・ボガード(78)に、書簡集『レターズ ミセスXとの友情 A Particular Friendship』(1989)がある。「決して会わない、声も聞かない」という約束のもとで未知の女性と交わした5年間分の手紙がまとめてある。
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なぜ文通が5年間で終了したかといえば相手の女性が亡くなってしまったからである。それなりにお年をお召しになってからの文通であったのだ。それでも屈折した役柄がぴたりとはまる「ダーク・ボガード」と「ミセスX」と並んだだけでただならぬ雰囲気が漂う。漂うよねえ。実際はスノッブな中身だけれど。
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それにひきかえ『アナログ』とビートたけし、と並べても、そうねえ本質的には『たけしくん、ハイ!』(1984)なんだろうね、というしごくのんびりした雰囲気しか湧いてない。そう感じてしまうのはインタビューの、たとえば以下の部分を読んだからだろう。
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《その頃(10年ほど前)はまだね、自分自身が女の人とのそういうことを嫌いじゃなかったの。今も嫌いなわけじゃないけど、能力がないっていうか(笑)、興味がなくなってるっていうか。
ただ、よぼよぼのジジイが女の子といい仲になったとしても、それを純愛とは言わない。この話は、30代の主人公が、まだ女の人を具体的に愛せるという状態でありながら、それがなくても、この子と一緒にいたいという感覚。それは純愛だなと。》
【「恋い焦がれる」楽しさと悲しさ――70歳ビートたけし「純愛」を語る】(「Yahoo!ニュース」2017年11月2日配信)
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「ジジイが女の子といい仲」になっても純愛は純愛じゃないのよー。もう脂汗タラタラ垂らして腹上死寸前で太田光(52)みたいな顔になってて、さらにしつこくくんずほぐれつまた取り付いて、それでも純愛だってことはあるじゃないのよー。ヤラシイいい方をするけれども、これが、既存のありふれたものの見方に簡単にくみしないのが文学的なものの見方というものでしょ。
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ところがばってん!! ビートたけしの“純愛”とは、見た目にも美しくなければならないのらしいのである。ますます『アナログ』=『君の名は』+『たけしくん、ハイ!』な感じになってきた。そういうことにしておけば少女を愛した川端康成翁(享年72)も先ほどの迂闊な発言を許してくれるかもしれない。
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小説『アナログ』は御年70歳のビートたけしが自身の生理に忠実に書いたものである。「自分自身が女の人とのそういうことを嫌いじゃなかったの。今も嫌いなわけじゃないけど、能力がないっていうか(笑)、興味がなくなってるっていうか。」という発言から伺える。
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でも小説上ではジジイだと汚いから主人公は30代の男にした、と。なにをしてくれてけつかんねん、である。70歳には70歳の世界観や生理があり、30代には30代のそれがある。性に対する考え方も違うであろう。それらはとうぜん行動やセリフの一つひとつに反映される。ただ年齢や外見だけを取り替えればいいというものではない。ああ、すまぬ。ビートたけしはただ美しい純愛物語をギャグのサービス付きで提供したいと思っただけなのであった。
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《 ──主人公は「肉体関係などどうでもいい」と思っていますが、そうした肉体関係に興味のない、いまどきの30代は「草食系男子」と上の世代から揶揄されます。
今の男の子は女の子とそんなことをするのがそんなに重要じゃない感じがするね。嗜好の一つには入っているけど、あと5、6個違うのが入っていて、それらの嗜好のためには、この一つをなくしてもいいような感じがある。けれども、我々の若いときだと、頭の中の80%を占めていて絶対外せない1個だから。
──そうすると、主人公はたけしさんの若い頃とは違う。
うん。そういう設定だし、それは自分の理想というのかな、こういうのっていいなあと思う。ギラギラ性欲ばかりのやつより、こっちのほうがいいなと思うんだよね。》(上掲のインタビューより)
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でもまあ、これは文学ではない。と私は思う。そんな予感がするのはただ単純になぜこれを書いたのか? という疑問にかなりつまらない感じを受けているからでもある。
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《小説は書く予定じゃなかったんだけど、この話、脚本はもう十数年前からあったのね。海外から「たけしは映画でバイオレンスばかりやっているから、拳銃なしの夫婦愛とか若い男女の話を見たい」というようなリクエストが多くて、いずれ純愛映画を撮ろうと思って。結局、脚本と小説ではオチも変えちゃったけど、見知らぬ男女が喫茶店で知り合うとか、携帯やなんかを教え合わないというのはできてたの。
そうしていたら、漫才師としてはだいぶ後輩の又吉直樹が小説で(2015年に)芥川賞をとった。あれが腹立たしくてさ。「俺だってあんなものは書ける。そういう小説は絶対に書かないだろうと思われるようなものを書いてやる」と言って、脚本を引っ張り出して、それを小説化したんだ。》(同上)
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これはシャレではないだろうと思う。ビートたけしは芥川賞を取りたくて小説を書いたのである。それが『アナログ』という作品に落ち着いたのには2つの道筋が見える。ひとつは又吉直樹(37)の『火花』(2015)への対抗心のために同じような日常的でヒューマンな心理劇にひき寄せられたこと、もうひとつは70歳という年齢も影響しているのであろう「大家」(notおおやさん)への一足飛びの野心である。
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つまり文豪といわれる方々が晩年にするような脂が落ちて淡々とした味わいというものがビートたけしのアタマにはあったのであろうと思う。いまさら本格的な小説をめざしてドッタンバッタンやる時間はないし。しかしそれには精緻で巧みな文章がなければならないのでたいへんでごわす。
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でもってそうとはいえ、これになにか賞が与えられることは間違いないのである。それがオトナの事情というものである。けれどもそれは小説の成り立ちからいっても、ビートたけしがめざした芥川賞ではなくて直木賞のほうであろう。首尾よくいって。又吉直樹の格下扱いに耐えられなければ文学というものをイチから教えてもらうほかない。
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これまでビートたけしが賞というものに公然と野心を燃やし、またそれを獲得するための戦略を作品に反映させた姿を私は見たことがない。もちろんひそかな企みとしてはあったのかもしれないけれども、あからさまにすることはなかった。と思う。
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だからであろうか『アナログ』には毒がなさすぎるような気がする。読んでもいないのに。そしてビートたけし自身は「振り子のようなもの」といっているらしいインサイドとアウトサイド——お笑いと暴力、本妻と愛人みたいなものの使い分けという常套的身振りから外れているような雰囲気もする。『アナログ』のビートたけしはこれまでのビートたけしとは違うのだ。
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唐突だけれども『アナログ』はビートたけしの終り、最終的な終りのはじまりである。それ以外の価値はたぶんこの小説にはない、というのが未読者の感想である。ゴメンネ。(了)
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