2017年11月13日月曜日

自殺って、ある意味ほとんどみんな他殺でしょ



例の神奈川県座間市の事件があり、気になってハッシュタグ「♯自殺募集」を覗いてみたら“死にたいけどひとりで死ぬのは怖いので一緒に死んでくれる人募集”という内容の投稿が多かったのでアレマ? と思ったのである。これから死んでいこうというのにひとりは怖いとはなにごとか、死ぬ気になればなんでもできる!!(byアントニオ猪木) というのが私の感想である。



そんな私でも「♯自殺募集」をしばらく眺めていると、““死にたいけどひとりで死ぬのは怖い”タイプの投稿の多くは“自殺に関心のある方お友だちになりましょう”的なものであることに気付く。代表的なものがコレである。



《 生きてるのが辛くて死にたい…。 でも一人で死ぬのは怖い…。 一緒に逝ける人いますか? 岡山の県北であえる奴なら最高や。 糞まみれでやりたいやつ、至急、メールくれや。 土方姿のまま浣腸して、糞だらけでやろうや。》



前半部分と“岡山”が出てきてからの部分では明らかに文体が違う。前半部分はコピペであろう。ああ、でもこれは自殺に関心のある人というより変態さん募集のほうにウエイトがかかっているのか。「土方姿のまま浣腸して、糞だらけ」でやるという激烈な嗜好をもつ人間はきわめて少ないけれども、死にたいと思っているヤツなら付き合ってくれるかもしれん、というところだと思う。



しかし仮に大部分の投稿の真意はお友だち募集にあるのだとしても、実際にこうしたSNSやサイトを通して知り合い、集団練炭自殺、硫化水素自殺などに到ってしまう方々はいらっしゃるわけである。



で、またアレマ? に戻るけれども、“死にたいけどひとりで死ぬのは怖い”という感覚が私にはわからないのである。似たようなことでむかし考えていたのは、こういうことである。



よし、いざ死のう!! と思ってビルの屋上なんかから飛び降りたとして、地面に激突するまで、落下中に、墜落しているその最中に死ぬのはやっぱりイヤだなー止めようかなー、と思ったりしたら辛いだろうなあ、そのとき誰か止められる人がいたら嬉しいだろうなあ、でもそんなことができるわけもないので、死ぬのはイヤだなー止めようかなー死にたくないなーと思いながら死んでいった方々はきっとたくさんいるだろう。



死ねるくらいの高さ、たとえば7階建ての屋上くらいのになるのか20mの高さから飛び降りて地面に激突するまでにかかる時間は2.0196199771026秒である。30mだと2.4735192091163秒で10mだと1.428086981229だ。風の具合や着ているものの形で変化するであろうけれども、自由落下(空気抵抗がない)の公式で計算しているので、さらに長くなることはあっても短くなることはない。



近くにあまり高いビルがないから10m級からジャンプ!! したとしても1.428秒だ。これは長い。突然の事故などに遭った経験のある方はおわかりいただけるかもしれないけれども、そんな大袈裟ではなくてもたまさかのすってんころりんでもいい、まさに“その瞬間これまでの人生のすべてが走馬灯のように蘇った”というようなことが起こるのである。まるで大河ドラマである。



かくいう私もむかしむかしうっかり足を踏み外して高さ4mほどの護岸から川に落ちたことがある。たかだか4mからでも滞空時間は長かった。とくに足を踏み外したということに気付いてからが長い。



この川はどのくらいの深さだっただろう? いま落ちようとしている場所はどうだっただろう? 見てなかったなー、失敗したなー、ちゃんと足下を見てなかったから踏み外したんだなー、もし水が浅くて水面に出ているか川底かの石に頭を打ったら、ひょっとしたら死ぬかもしれない、ひょっとしたらではなくて打ち所が悪ければきっと死ぬ、死んだら死体になって流されるわけだけれども、そうか土左衛門といったって溺れ死んだヤツばかりではないんだなー、親は怒ったり悲しんだりするんだろうなー、通夜とか告別式とかメンドくさいなー、葬式にアイツはきてくれるだろうけれどもこっちのアイツはたぶんこないだろーなー。



などなど、いやもっともっとを、高さ4mの護岸からだと0.90320151150358秒のあいだに考えたのだ。これが10mの高さからで1.428086981229もあったら、自分から飛び降りたとしても絶対にいまさらの後悔や躊躇が生まれてくると私は思う。川に転落した私は、気がつけば腰まで水に浸かってお座りをしておりました。



“一人で死ぬのは怖い”というのは、死にたいけれども、たとえばビルの屋上から一歩踏み出すのが怖い、ということであろうか? しかしそれは死にたくないから怖いのであって、死にたければどうということはない、むしろ期待と歓びに満ちた行為なのではないのか?



つまり、“一人で死ぬのは怖い”というのは、自分の死を担保にしてでも仲間がほしい、ということの裏返しの表現ではないのか? そうだろうなあと思う。仲間というか、最後に信じられる人というか。



なので“一人で死ぬのは怖い”と投稿してたまさか“仲間”と出会ってしまい、なりゆきで死んでしまう、そんなケースもあるのだろうなあと思う。目も当てられない。いわゆる集団自殺に私はそういう弱さを感じるし、その弱さを受け容れてくれる人や場所に出会わなかった不遇を感じる。



ひとりで死んだって大勢で死んだって死そのものはあくまでも個人的なものだ。“仲間”がいるのはその死の直前だけのことであって、死んでしまえば生きていたときと同じにひとりである。その瞬間の“仲間”でさえほしいのである。つまり死にたくて死ぬ人はいない。



もしそうでないのであれば、その方々、現実に追われるのではなく自発的に死を望む方々はどうやって死の恐怖、ただの“死ぬのは怖い”を克服されたのであろう?



子どものころ、死んだらいったいどうなるのだろう? と考えて眠れなくなった。自然な本能である。生き物として生まれてきた以上、生きていくようにできている。生まれちゃったから生きていく。なので死は怖いということになっている。それは克服できないものだ。



 過去1年以内に自殺未遂を経験した人は推計53万5000人にも上るらしい(日本財団2016年8月28日〜29日調査)。2016年の自殺者は2万1897人(厚生労働省自殺対策推進室・警察庁生活安全局生活安全企画課 調べ)であった。達成率3.93%である。1年間に53万5000人が瀬戸際まで追い込まれ、そのうち首尾よく瀬戸際を超えたのは約4%である。



お話はぴょんと跳ぶ。「もはや無能」だの「コンプレックス丸出しの馬鹿さ」だの「くたばれ」だの、これでもかと汚い言葉をつかってメディアで噛み合っている方々がいらっしゃる。あれは首吊り用のロープをさらに固く縛りつける行いに見えてならないのである。自分の正当性ばかりを主張して議論の余地さえ与えない正義は人を殺す。巡りめぐって自殺者を増やす。



ちなみに上の例は上西小百合(34)の言葉である。“一人で死ぬのは怖い”ババアが通りすがりの他人さまの袖を引いているのに近い。(了)



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