2018年1月23日火曜日

正直もう少しどうにかならなかったのか西部邁の多摩川入水

死んでいくのはいつも他人だけ。評論家の西部邁が死んだ。





◆『スポニチアネックス』2018年1月22日配信
【西部邁さん入水自殺 「朝生」保守の論客、多摩川の河川敷に遺書】

《保守派の論客として知られ、テレビ朝日「朝まで生テレビ!」など多数のテレビ番組でも活躍した評論家、西部邁(にしべ・すすむ)さん(78)が21日朝、東京都大田区田園調布の多摩川で浮かんだ状態で発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。河川敷に遺書が残されており、警視庁は入水自殺の可能性があるとみて調べている。14年の妻の死などによって自身の死への思索を深め、自死への思いを周囲に打ち明けていた。

捜査関係者によると西部さんは21日未明から行方が分からなくなり、捜索願が出ていた。午前6時40分ごろ、自宅から約7キロの多摩川で「父が川に飛び込んだ」と長男が110番通報。駆け付けた田園調布署の署員が救出したが既に意識がなかった。溺死とみられ、遺書もあったことから同署は自殺とみて調べている。

「朝まで生テレビ!」(朝生)で故大島渚さんらと大激論を展開し、番組名物となっていた西部さん。精力的に仕事を続けていたが、体調は万全ではなかった。2012年ごろに咽頭がんが見つかり、手術で除去。関係者によると、万が一、再発が見つかると「病院から出られなくなる」と再検査には消極的だった。最近は頸椎(けいつい)を痛め、手書きを貫いた執筆作業ができず「頭から上は元気なのに」とぼやいていたという。

14年には高校の同級生だった妻に先立たれ、大きな喪失感に襲われ「病院では死にたくない」として自死への憧憬(しょうけい)を周囲に明かした。「朝生」で共演したジャーナリスト、田原総一朗氏(83)は「死ぬ時は自殺したいと言っていた。自分のことは自分でけじめをつけるということで、体が不自由な状況が許せなかったのでは」と悼んだ。過去の出演番組で自殺について言及したことも。前日の20日に放送されたTOKYO MXテレビ「西部邁ゼミナール」(前7・05)では「僕の人生はほとんど、無駄でありました」と意味深な言葉で締めていた。

大衆社会批判を展開する辛口の評論家として存在感を発揮。田原氏は「曖昧なことが大嫌い。日本は安全保障も経済も、大事な部分を隠して曖昧。そういうことが我慢できなかったのでは」と語る。

昨年12月に刊行された最後の著書「保守の真髄」の中で「自然死と呼ばれているもののほとんどは実は偽装」で、その実態は「病院死」だと指摘した。自身は「生の最期を他人に命令されたり弄(いじ)り回されたくない」とし「自裁死」を選択する可能性を示唆。後書きでは、口述筆記をした娘の智子さんに「僕はそう遠くない時機にリタイアするつもり」と語りかけた。主宰した論壇誌「表現者」でも昨年、顧問を引退。覚悟の末に、自ら人生の幕を下ろした。》





「自裁死」、「自裁」はこれだけで自ら死ぬことを意味するのであるから、それに重ねて「死」をつけてしまえばダブる。死の前日に放送されたテレビでは「僕の人生はほとんど、無駄でありました」と語っていたらしいことと合わせて精神の衰弱を感じさせる。



であるからこれから書くことはとくに西部邁を指してなにかをいおうとするものではない。疲弊しながらも自覚的な死で先行した西部邁を悼む気持ももちろんある。ただ死ぬときは孤独死=餓死と決めている私として、もう一度その決意の方法を検証してみようと思ったのである。



西部邁の自殺のニュースを聞いて最初に思ったことは、自殺者はすべからく敗者か? ということである。病気、人間関係の蹉跌、経済的困窮、仕事の不調などに追い詰められた気持になって自死を選べば、それはまあ、負けたのだ、と思われてもしかたがない。



しかし私は負けたとは思われたくないのである。なにがし世俗的な成功を手にした人生の勝者になりたいのではない。人生を上がった、と思われたい。ふだんアホバカマヌケ、犬に踏まれた男、と悪しざまに罵られてもまったく平気なのだけれども、なぜか最後の最期だけは人生というものに負けたとは思われたくないのである。そんなことやめればいいのに。



そのためには思い切り生きて生きて生きまくって生命を燃焼し尽くすのだ!! ガッツだぜ!! というのがたぶん正しいお答えであろう。だがそんなのメンドくさい。ただただ死に方において、上がった、と思わせたい。生を燃焼し尽くすなんてあしたのジョーみたいじゃん。白木葉子も林紀子もいないあしたのジョーってどうなの? これも孤独死か、そうか。



であるからして私は冬の多摩川に浮くことはできない。なにしろ陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室床に転がった三島由紀夫(享年45)の頭部の写真を見てコケティッシュな印象を抱いてしまったバカである。そんなこんなで考えると、人生上がった感のある死に方はやはり孤独死すなわち自らすすんで餓死ということになるのではないか。



もうひとつ、徹底的に惨めな死を選ぶという方法もあるかもしれない。死に方がどうのこうのとバカかおまえら死んだらそんなことなんにも関係ねーんだよー、と大空の彼方から呵々大笑の大音声を響かせるような惨めな死に方。そうすれば人生なんか、と蹴飛ばして上がった感を創出できる。



と考えてその次にさっそく、さもさも人さまをバカにしたような顔つきで死ねばいいんじゃないの、バカ殿メイクかなんかで、と姑息な代替案を思いつく私はとことんダメ男である。自虐の香りが漂うのもマズい。バカでもスタイリッシュにいきたいわけよ。



でもって孤独死である。そろそろ自分で自分の面倒を見られなくなったなと思ったら、飲まず食わずの完全絶食に入る。早ければ2週間くらいで死ねるという報告もあるので簡単なものである。



しかしこれを実践するなら入院はできない。「自然死と呼ばれているもののほとんどは実は偽装」で、その実態は「病院死」であると西部邁は最後の著書に記したらしいけれども、「自然死」という言葉には「老衰死」と「(延命)治療を拒否しての死」のふたつの受け取りかたがあるように思う。



西部邁が実態は「病院死」であると糾弾した「自然死」とは、後者「(延命)治療を拒否しての死」である。「老衰死」ならとりあえず文句のつけようはない。



なぜ西部邁が「病院死」と揶揄したのかといえば、病院は実施可能な治療を故意に省いたり中止したりすることはできないからだ。法律的には、どんな職業であれいわゆるプロには民法上の善管注意義務があり、その時その場その状況でプロとしての最低限のレベルの行為をしなければ法的責任が発生する、というところに引っかかる。とされる。



また入院した時点で患者と医療機関や医療関係者とのあいだには診療契約が結ばれており、これを無視すると民法上の債務不履行、刑法では業務上過失致死傷に問われるかもしれない、という考え方もある。もちろん病院で死ぬにしろ自宅で死ぬにしろ、餓死すれば医療関係者や身近な人間が自殺幇助の疑いをかけられる可能性がある。



病院にとって、またあるいは家族にとっても「自然死」希望はヤバいヤツなのである。であるから病院における「自然死」は西部邁のいう通り偽装のカタチをとるほかない。実はこっそり“最低限の治療”は行われているのである。あるいはそのように見せかける措置がされているのである。



口から飲食できなくなった場合、誤嚥下防止などのため口以外の場所から胃に栄養分を入れる「胃瘻」という治療がある。なかなか評判の悪い術で拒否したがる方々も多い。で、希望通り拒否できれば飲食拒否 → 餓死となるのかもしれないのだけれども、上記の理由でこういう患者からの拒否を拒否し返す医療機関が少なくない。入院したいのなら、とあらかじめ「胃瘻」を受け容れるよう一筆求めるところもある。



しかし飲食拒否を求める声は高いのである(↓)。メンドくさいかたは見出し以外、飛ばしてしまってもかまわない。



◆『朝日新聞デジタル』2017年12月17日配信
【死早める「飲食拒否」の終末期患者、専門医の3割が診察】

《終末期の緩和医療に携わる国内の医師の約3割が、自らの意思で飲食せずに死を早めようとする患者を診たことがあった。

日本緩和医療学会の専門家グループが調査した。この行為の深刻さは医療界でほとんど認識されておらず、調査した医師は、こうした患者への向き合い方を議論する必要性を指摘している。

がんなどの終末期でも、多くは適切な医療やケアで苦痛を緩和できる。だが身の回りのことができなくなる恐れや、死を自分でコントロールしたいという強い希望を持つ患者だと、点滴や飲食を拒む場合がある。

「自発的に飲食をやめる」という英語(voluntarily stopping eating and drinking)の略から「VSED」と呼ばれる。欧米では安楽死と並んで法的、倫理的な側面を含めて議論されてきた。安楽死や医師による自殺幇助(ほうじょ)が合法化されているオランダでは、2014年に王立医師会などがVSEDの患者に対するケアの指針を策定。米国看護師協会は今年、死を早める手段としてVSEDの権利があるなどとする声明を出した。一方、国内では実態がほとんどわかっておらず、同学会役員らが参加するグループが初めて調べた。

2016年、みとりを専門とする同学会と日本在宅医学会の専門医の計914人に質問票を送付。回答が有効だった571人のうち、185人(32%)がVSEDを実際に試みた終末期患者を診たことがあった。経験した患者数は、168人(91%)が「1~5人」、8人は「6~9人」、9人は「10人以上」と答えた。がんが多いとみられるが患者の病気やVSEDを試みた後の状況は、今回は調べていないという。

一方、「VSED」という言葉を知っていた医師は301人(53%)で、医療界全体では認知度がさらに低いとみられる。調査の中心を担ったしんじょう医院(神戸市)の新城拓也院長は「VSEDに直面した医師は、何もしないでいて欲しいと言われているに等しく、倫理的に強い葛藤が生じる。VSEDを試みる患者にどう向き合い、何ができるか、議論していくべきだ」と話す》





VSED(voluntarily stopping eating and drinking=自発的に飲食をやめる」を試みた後の状況を今回は調べていないというのは、いうまでもなくもしそれがひきがねになって死亡した事例が判明すれば法に問われる可能性がある微妙な問題だからである。



さて、こうした状況で餓死をまっとうするには周囲の人間を巻き込まないように注意しなければならない。まあ、このあたりの丁寧さ、細心の配慮が上がった感につながればよいのであろうか。もともと友達がいない私としてはそのあたりのことを見せつけられないのがたいへんに残念であるけれども。



それでも以前にも書いた通り、異様に目をパッチリさせたプリクラ写真を遺影用に用意しておけばいいかな。うむ。いいな。スタイリッシュではないけれども、最期にその人間の人生が集約されるというし、しかたなす。(了)




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