「長渕剛10万人オールナイト・ライヴ2015 in 富士山麓」が終わった。詳しい情報をまだ見ていないが、アクシデントといえば倒れたテントで看護師2人が軽傷を負ったことくらいであるらしい。とりあえずは大過なく終了したことを喜びたい。
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今回のコンサートは「長渕剛の長渕剛による長渕剛のためのコンサート」であり、58歳の長渕剛が、自身のシンガーソングライター人生の総括として、「ワンマンで10万人」、「富士山麓」、「オールナイト」の3つのメルクマール(指標、目印、判断基準)に挑むのだ、と前回書いた。
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「富士山麓」と「オールナイト」は開催にさえ漕ぎ着ければほぼ自動的に達成されるから、眼目は「ワンマンで10万人」である。なんといっても「長渕剛10万人オールナイト・ライヴ2015 in 富士山麓」である。具体的なテーマは10万人動員できるかどうかだけなのである。正味な話。
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で、見た目そこそこの動員は果たせたらしいのである。しかしそのうち正規入場者の割合がどの程度か、想像がつかないのである。たとえば19日の段階で、1万5000円のチケットがヤフオクで1枚981円、さらに後日には3枚121円で落札されていたのである。送料とどっこいどっこいの値段である。
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仕事上の付き合いなどで否応なくチケットを押し付けられた人々がずいぶんたくさんいたということである。売りに出したのはおそらくそういう人々である。しかも開演の直前になって「無料モニター」まで募集されたのである。やはり苦戦だったといわざるを得ない。
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今回のコンサートの総括は以上で完了である。セットリストにもなにも目新しいものはない。「長渕剛の長渕剛による長渕剛のためのコンサート」は、微妙な入りで無事終了。お疲れさまである。
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だが、どうしてもいっておかなければならないのは、富士山麓で長渕剛と何万人かを呑み込んだ不気味なまでの空虚である。「音楽を通して、生きる意味、生きる感覚をみんなと共有したい。日本人の持つ連帯と自尊心をもう1度、呼び掛けたい」というのが開催の趣旨らしい。まったく空疎である。
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それらしい言葉の羅列ではある。しかしそれだけである。そもそも「生きる意味、生きる感覚」は人それぞれで共有されるものではないし、されるべきものでもない。「日本人の持つ連帯と自尊心」といわれても、なにを示しているのかは曖昧なままである。「お互い日本人だよねえ」というくらいのことしか私には思い浮かばないのである。せいぜい生真面目に考えて。
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で、長渕剛はのっけに「いくぞ、いくぞ、いくぞー! 拳を上げろー! もっと、もっとだー。本気でいくぞ、本気で。本気を見せてくれやー!」と絶叫したらしい。そして「よく来たなー。俺とみんなで最高の伝説を作ろうぜー! 覚悟はいいか、用意はいいか。おまえらが主役なんだよ」とまた叫んだらしい。
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らしいばっかりで恐縮だが、長渕剛の言葉には、それ以上になにひとつ具体的なものがないのである。あるのはなんだか勇ましく高ぶった気分だけなのである。そしてその気分の底にあるものがなにものなのかにはまったく目を向けることなく、ただただ気分だけが暴走していくのである。
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つまらねえ毎日、ずたずたにされる人としてのプライド、日本人はこんなもんじゃねえだろー。みたいな、そんなこんなの不満や憤りが「いくぞ、いくぞ、いくぞー! 拳を上げろー!」と煽られ、「最高の伝説を作ろうぜー! 覚悟はいいか、用意はいいか。おまえらが主役なんだよ」とヒロイックな気分に収斂されていくのである。
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つまり暴走族の集会とほとんど変わりがないのである。しかし暴走族なら多くても数百人単位であり、規範への忠誠と「反抗」という立派なテーマがあったのである。しかし富士山麓の剛と数万人は「反抗」すら持ち合わせず、ただただ高ぶるのである。
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そしてあれよあれよというまに、「10万人の拳を日本の空に突き上げろ」となり、「ついに来たな。雨が降ろうが、嵐になろうが、俺たちの力で必ず朝日を引きずり出すぞ」になってしまうのである。バカである。こうやって人はバカになっていくのである。だまっていても朝日は昇るのである。
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「長渕剛10万人オールナイト・ライヴ2015 in 富士山麓」に参加された方々に私は心からお願いしたいのである。落ち着いたら、自分が拳を突き上げたのはなにものに向かってだったのかを心の中に探してもらいたいのである。自分がなぜ富士山麓で高ぶったのか、その理由を考えてもらいたいのである。お願いである。日本のためである。高ぶらなかった人は、すべて悪夢だったと諦めるしかないのである。 (了)





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