テレビが私たちの頭上につくったハイパーな空間、という話を3、4回前くらいに書いた。その虚構の空間に依存して私たちは生きている、と。で、村上春樹の小説はハイパーな空間へいったっきりで降りてこないのが常套、というようなことも書いた。しかし、いまやハイパーな空間に依存することでかろうじて成立している物語はたくさんある。そのひとつが「進撃の巨人」である。
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「進撃の巨人」、まあ恐ろしいことに人が食べられてしまうのである。「捕食」といういいかたをしている。この言葉はすぐに、弱肉強食、食物連鎖、進化、優生思想などのイメージを喚び起こさせるのである。
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人間を餌にするというのは、なかなかよいアイデアかもしれない。なにしろ増えすぎて困っているのである。地球上の総人口は、1900年には約15億人であった。それが2000年には約60億人、そしてただいま現在の推計値は、約73億人なのである。
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地球上の人口は爆発的に増えているのである。しかしこの地球ってものにも限りがあるのである。養える人口は約100億人だという試算がよく知られている。このままのペースでいけば、2065年にはその100億人にめでたく到達するらしいのである。
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そんなに増えてしまう人間は、だから食べてもらうか、手に負えない疫病が流行るか、大災害が起こるかして、大幅に減ってもらわなければ困るのである。宇宙に飛び出すったって、それは人間という種を守るための話であって、急に何億人も移民するなんて話ではないのである。
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とはいえ現実的には人類全員、いっせいに腹を空かせて共倒れ、なんてことは考えられないのである。どこかで何らかの調整が働くのである。恣意的に引き起こされる大規模な飢餓だったり疫病だったり、それに抵抗する紛争だったり、あるいは一種の合法的な集団的な自殺であったり。
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2009年、ひと足早く、そんな厄介なこの地上からおさらばした社会人類学者、民族学者がレヴィ・ストロース(享年100)である。晩年にこんな発言をしている。「ここ3世紀、ほかの生きものから人間を孤立させてきた人権の定義を再構築する作業が必要だ」。???????、人間にも喰われる権利を、とは聞こえないか?
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こんなふうな危機感がバックボーンにあって、「進撃の巨人」が生まれたと思うのである。人類ももっと謙虚に、素直になって生態系に組み込まれちゃいなよ、You!! ということである。ずいぶん壮大な発想である。
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だがしかし、いまのところでは、人が筋肉模型みたいな巨人に食べられたり生き返ったり、闘ってファンタジーバトルにみたいになっているだけで、なにがどうなっているのか、さっぱり状況の説明がないのである。皮膚のない筋肉模型みたいな巨人、というのが仮に捕食する側の人間であったとすれば、それなりの暗喩ではあるが。
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原作コミックを描いている諌山創(28)は、「舞台などの謎が明かされたときが物語の終わるとき」であると語っている。つまり、最後の最後まで、これがどういう物語なのか、何を描こうとしているのかはわからないよ、といっているわけである。
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社会学者の大澤真幸(56)のいう、「虚構の時代」なのである。虚構の時代とは、虚構が虚構によって担保される時代である。本来、虚構(物語)は、現実の合理に支えられ、そこに着地するものなのに、たとえばTDR にはどこにも現実の風景がない、というわけである。どういう話かわからないけれども、とりあえず物語は進行するのである。
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で、大澤真幸によると、「虚構の時代」は1980年代にはじまって、その後10年ほどで次の「不可能性の時代」に座を譲ったのだそうだ。これもまた「進撃の巨人」に見え隠れしていて、物語の「解決不可能性」とかなんとかいいだす評論家までいるらしい。
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「進撃の巨人」は、2006年に講談社のマガジングランプリ佳作受賞作品として発表された、諌山創のデビュー作である。当時、作者19歳である。連載化されたのは3年後の2009年である。おそらくこのあいだにあーでもない、こーでもない、という練り直しが行われたのであろう。以後、盛大なメディアミックスが展開される。
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で、結局、「進撃の巨人」が自ら思わせぶりにまとった、人間観の再検討とか時代論とかに、最終的に十分に応えられる結末が用意されているのだろうかといえば、それはムリってものである。最後の1枚のカードですべての辻褄が合うなとどいうことはありえない。そんなことは誰にもできないのである。そして、もはや誰も期待すらしていないのである。
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しかしこうしたことはいまさら目くじらを立てるものでもないのである。世界観とか人間観、理想、宇宙論などといった、他のジャンルでは嘲笑されるしかなくなった哲学的テーマや考えは、ことごとくコミックやアニメ、ゲームのなかにひっそりと姿を隠しつつ息づいてきたのである。
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プログレッシブロックやヘヴィメタルなどがアニメソングの中に潜んで生きながらえてきたのと、それはまったく同じである。そしてアニメソングのプログレやメタルはかなり上手に消化されていると思えるものもあるが、本編に隠されているテーマは、いつも、いつのまにか手に負えずに消えてしまうのである。
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であるから要するに、「進撃の巨人」にしても、引っ張れるところまで引っ張ってみようぜ、稼げるあいだにスピンアウトなんかもいっぱいつくろうぜ、なのである。結局、「進撃の巨人」は、人が捕食される、という思いつきに終始するのである。
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読者が振り向かなくなるまで、自分でもよく訳のわからないものを描き続けさせられるという諌山創の難行苦行は続くのである。そしておそらく次回作があるとすればそれは「進撃の虚人」であり、その次もムリヤリ頑張らせられれば「進撃の狂人」である。間違いない。 (了)





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