お笑いコンビ「キングオブコメディ」の高橋健一(44)が、女子学生の制服などを盗んで逮捕された。12月26日のことである。ふうん、サバンナの高橋(茂雄、39)もやりそうだよな、というくらいで、われながら反応が薄いのである。というより思考停止である。フェティシズムというのが理解できないのである。女子の制服のなにがそんなにありがたい? なのである。
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健一は、「性的欲求を満たすためだった。20年位前からやっていた」と供述しているらしいのである。しかし制服でいったいどうやって性的欲求を満たすのであろう? おお、Wikipedia「フェティシズム」の項に載っているカラー写真を、皆さまにもぜひぜひご覧いただきたいのである。この「ペナルティ」のワッキー(43)に似た男のようにするのである。
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ちなみに健一は、眞鍋かをり(35)に捕まってからというものどこへ行ってしまったやら、の吉井和哉(49)の若いころに、どこか似ているのである。和哉にしてみれば、ひょんなことで思い出されていい迷惑な話である。
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しかし、ワッキー似の男のようにはできないのである。たとえば制服以外の窃盗、パンだとかジュースだとか金だとか宝石だとかの窃盗なら、まだ理解はできるのである。しかし(性的欲求を満たすための)制服についてはまったく想像力のとりつくしまもないのである。
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物騒な話になるが、殺人とか傷害、器物破損などの粗暴な犯罪のほうが、まだまったくわからないではないのである。それは自分の中にかすかではあるけれども、そうした犯罪にいたる可能性の芽、暴力衝動みたいなものを認めることができるからである。
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苦しい事件を思い起こさせて申しわけないのである。昨年から今年のはじめにかけて、イスラム国による日本人2名の誘拐殺害事件が起きたとき、岸田文雄外務大臣(58)は「人間のやることではない」と述べたのである。「人間のやることではない」? 。では誰がやったというのだ?
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いやいや、人間としてよくもこんな残虐非道な真似ができたものだ、という非難の言葉であることはもちろん承知している。しかしそれを「人間のやることではない」と簡単にいってのけてしまったときに、イスラム国や実行犯に対する想像力は封をされてしまうのである。
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イスラム国の人々も人間なのである。親もいれば子どももいるかもしれないのである。しかし、なにかよくないことが起きているから、人間が人間に対してあのように凄惨な暴力をふるう状況が生まれているのである。そう考えていかなければ、テロや紛争、戦争の解決や防止にはならないのである。
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苦境に置かれ、理解どころか認知もされずに死んでゆく人々の絶望と怒りが、おそらく世界中のあちこちにあるのである。イスラム国や暴力を肯定しているととられるとまったくの心外だが、こういう想像力をもつことは、ひとりの、いま曲がりなりにも平穏に生きている人間としての責任のように思うのである。
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女子学生の制服泥棒という実にいじましい犯罪行為についても、だから理解しようと思うのである。諒解ではない。理解できれば子々孫々への戒めにもできるのである。しかし、どうしてもわからないのである。
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健一のように、ある特定のモノに対して強い性的な魅力を感じることをフェティシズムというのである。その「強い性的な魅力を感じる」までの心理の流れが把握できないのである。Wikipediaには性的フェティシズムとは「生命のない対象物に対する強烈な性衝動、妄想、行動」とある。性衝動、妄想、行動、と並べて書かれてしまっては、それは反応のすべてである、といいたくなる。
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つまり健一にとって制服とは裸の女のようなものなのであろうか? 本来、裸の女に向かって感じたり行為したりすべきものを制服に対してしてしまう、ということなのであろうか? なんとなく浜辺のスイカ割りとか、クッションに腰を使ってしまう室内犬とかを思い出してしまうのである。で、制服を着て歩いている女子学生を見ると、どう感じるのであろうか?
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とりあえず健一の場合に限って考えてみよう。たぶん健一、ドンキかなんかで売っているコスプレ用の制服ではダメだったのである。であるから、わざわざ学校に盗みに入っているのである。ということは、着用済みの制服がいいのである。着用済みの制服に、女子学生のぬくもりや面影を感じるのであろうか? で、それが自分の手の中にあるとき、イコール女子学生を捕まえた、ということになるのであろうか?
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健一は、制服を抱きしめて女子学生と仲よくしている気分に浸っていたのだろうか? それとも、女子学生を自由に弄ぶ妄想のなかの自分の力に陶酔していたのであろうか? あるいは、そういうサディズムとは逆に、はずかしい真似をして捕まり、罵詈雑言を浴びせられる自分を想像して興奮していたのだろうか?
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いろいろ考えられるのでわからなくなってしまうのである。ここのところ、誰か健一に事細かく聞き取りをして、報告してもらいたいものである。相方の今野浩喜(37)にやってもらうと面白そうなのである。
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もう少し、事実関係から追ってみよう。健一は50校以上の制服など約600点を押収されているらしいのである。「20年くらい前から」である。試算すると、というほど大げさなものでもないが、年間平均30点、つまり毎月毎月、2点少々盗んでいた計算になるのである。
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これはつまり、使い捨てということではないのか、と思うのである。月2回。およそ24歳から44歳のあいだ。うむ。なんとなく体力的にはツジツマが合う感じである。1着1回。しかもそうした盗品は大型のポリ袋に入れられていたという話もあるのである。70袋もあったらしいのである。また割り算である。1袋約8、9点収容していたわけである。つまり4、5ヵ月分である。
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そんなにためてしまう前に、洗ってもう1度使おうとは思わなかったのであろうか? 1度汚してしまうと興味を失ってしまうのであろうか? それとも女子学生の匂いやらが消えてしまうので、洗ってはいけないものなのであろうか? このあたりもぜひ浩喜に確認してもらいたいところである。
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でもって健一、「性的欲求を満たすためだった。20年位前からやっていた」と供述しているらしいのである。20年前というと、1995年。そろそろブルセラショップが下火になりはじめてきたころである。たぶん健一も顧客だったのだろうと思うのである。
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ブルセラショップとは、中古、使用済みのブルマーやセーラーなどを売り買いする店である。買うほうも買うほうだが売りにいくほうも売りにいくほうだということで、いまは青少年保護育成条例などで規制の網がかけられているのである。だからといって盗むなどとは言語道断だが。それにしてもクソ入りパンツみたいなブルマーのどこがいいんだか。
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しかしながらブルセラ販売については《ブルセラ事情に詳しい風俗ライターは「いくら法規制しても、女子学生らの使用済み制服や下着などに対して押さえ切れないほどの性的関心を抱く男性は、一定の割合で存在している。今後もやみ取引や、盗難事件、強奪事件などが続発すると思われ、根絶はかなり難しい」》なのだそうである。(「日刊スポーツ」12月27日配信)
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「一定の割合で存在している」のはわかるような気がするのである。しかし健一のように20代半ばから40代半ばまで、一貫してその趣味嗜好が変わらない、というのはよくあることなのであろうか? セーラーからナース、裸エプロンみたいな、年齢を追っての嗜好の変化はないものなのであろうか? ここもひとつ浩喜に確認をお願いしたいところである。
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それからさらにもうひとつ、健一には妹がいるらしいのである。この妹の存在というものは、ブルセラ趣味に走る際の足枷にはならないものなのであろうか? も確認してもらいたいのである。妹の顔が浮かんできて萎えることはなかったか? とはっきり聞いてもらいたいのである。
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上と下を女に挟まれて育った私には、顔が浮かんできて萎える、ということすらないのである。女というものに対する憧れや夢は幻想など、ほんとうにゼロなのである。永遠のゼロである。「神秘的な女」など、聞いただけで腹筋が痙攣するのである。で、妹がいるのに……、と思ったりするのである。
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ちなみに一定の割合といえば、ひとりSMでの死亡事故というものも、一定の割合で存在しているらしいのである。国内で毎年ほぼ300件も起きているらしいのである。『ヨソで言わんとい亭』(テレビ東京、11月5日放送)なので、あんまりあてにはならぬが。しかし多くは窒息死で、焼死などもあるというのである。
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そういえばときどき、両手両足を縛られた状態での首吊り死体で発見されても「事件性なし」として片付けられる場合などがあって、気にはなっていたのである。ふうむ。しかし、毎年毎年約300人も死ぬというのも、死んでもまたすぐに変態さんが300人補充されているような気がして、不謹慎だがおかしいのである。
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そうそう、外国での話ではあるが、『キル・ビル』(2002)のデヴィッドキャラダイン(享年72)がバンコクのホテルで死亡したときには、発見時、《首と性器にそれぞれロープが巻きつけられており、2本のロープは結び合わされてクローゼットの中に吊るされた状態だった》のである(AFP)。わかりますか? クローゼットの中に首とチンチンで宙づりになって死んでいたわけですよ。キツいっす。
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で、ホテルの室内係が遺体を発見したとき、部屋には内側からかぎがかけられており、また、遺体には争った形跡もなく、防犯カメラにも部屋を出入りする人物は映っていなかったことなどから、自慰行為の最中に死亡したのだろうとされたのである。2009年のことである。止むに止まれぬ人たちはいるのである。止むに止まれず殺し合う人たちも。
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おお、これだけ書いてきて、止むに止まれぬ人たちはいる、ということだけがわかったのである。まるでオバサン、オジサンの世間話である。これが私の止むに止まれぬ、かもしれないのである。いや、そんな格好のいいものではないのである。まだまだ修行が足りないのである。なんの修行だかはわからないのである。(了)


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