11月30日、水木しげるさんが亡くなった。多臓器不全。93歳。これ以上の経過、および経歴などはすでに多くのニュースで伝えられていると思うので、省略させていただく。しげるさんは憤怒の人であった。ここに、深い哀悼の意を込めて、そのことを書きたい。故人を貶める意図からでないことは、ご諒解いただけると思う。
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楽しそうに笑っている、諦観が滲んでいる、怒りに堪えて膨らんでいる。アタマに浮かぶしげるさんの面影は、いつもこの3通りである。楽しそうに笑うのは妖怪の話などをしているとき、諦観が滲むのはにぎやかな席で人に囲まれたりなどしているとき、そして怒りはいつでも前ぶれなく現れてくるのである。憤怒は人間というものに向けられていたのである。
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傍観者の勝手ないいぐさではあるが、しげるさんが最晩年まで、いやおそらくは最期までその憤怒から解放されなかったことに、胸が塞がれるのである。それは創造する力をしげるさんに与えたけれども、引き替えに心の安らぎを奪い、同時代に生きる者たちの無力を説き続けたのである。
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しげるさんの作品には、ご承知の妖怪ものともうひとつの系統、いわゆる戦記ものがある。漫画『総員玉砕せよ!』や画文集『水木しげるのラバウル戦記』などである。ここに描かれたニューギニア、ニューブリテン島の戦場の残酷、不条理は、想像力をはるかに超える。その90%は、自身が太平洋戦争に応召した経験を描いたものだという。
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ニューギニアの闘いでは、約18万人の日本軍将兵が命を落としている。生還率はわずか10%程度である。戦力的に圧倒的優位に立つ連合国軍との交戦が熾烈を極め、さらに物資の補給が途絶したためである。戦闘は、連合国側からすれば終戦当日の8月15日まで続いたのである。
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しかし玉砕、あるいは敗走に敗走を重ね、熱帯性感染症と飢餓で兵士たちがバタバタと倒れていく状況は、最後にニューギニアの日本軍(第18軍)が降伏した9月13日まで続いたのである。司令部に批判的な立場に立てば、ニューギニアの日本軍は、戦況が不利になるにつれ棄てられてしまった軍隊という見方ができるのである。
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しかし『総員玉砕せよ!』や『水木しげるのラバウル戦記』は、いわゆる戦争告発一辺倒というものでもない。血なまぐさい戦場で、じわじわと気力体力を奪われていくジャングルで、飢えに苦しみ、理由も呑み込めぬまま上官に殴られ、必死の思いで部隊に合流すれば死ねといわれ、戦友が死に、自身も片腕を失う状況が、不思議に淡々と描かれているのである。
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戦況の分析や説明もない。戦場での、なんともいいようのない裸の人間の姿が、終始一貫して一兵卒の視線から、怒りと絶望と、ときにはユーモアも交えて仔細に描かれているのである。それが戦争の怖さをまざまざと伝えるのである。こうした経験は『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』(河出文庫)により詳しい。
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しげるさんは、物理的、精神的にこわれていく人間の姿を通して、人間を見てしまったのである。ちなみに、しげるさんは死体写真の蒐集家でもあったのである。これはしげるさんの、人間に対する関心の異常なほどの高さを示すものだと思うのである。つまり、あの愚かさや醜さ、無邪気さはどこからくるのか、どこへいくのか、腑分けしてでも突き止めたいのである。
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そういうわけで、しげるさんの戦記漫画には、善悪ともども人間が見事に描かれているのである。いや、たいへん驕ったいい方になるのかもしれないけれども、しげるさんは戦記漫画でしか、人間を描くことができなかったのである。
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明治から昭和に生きた尾崎翠(享年74)という作家がいる。闘病などのために創作期間は短かったのである。しかしながら『第七官界彷徨』などの名作を残しているのである。彼女が最晩年に口にしたという言葉「これが人生というものなら、酷いものだねえ」を思い出すのである。
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しげるさんは、なぞらえてみれば「これが人間というものなら、酷いものだねえ」と思っていたはずなのである。もちろんそんなことを口に出す人ではないのである。そうではないが、漫画家として大成してもなお、ときどきは諦観が滲んでいたり、怒りに堪えていたりする表情を見せるたびに、その言葉がアタマに浮かんできたのである。『総員玉砕せよ!』のラストシーンは白骨の山である。
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であるから、しげるさんはそんな人間の世界から逃れるように妖怪を愛し、妖怪漫画を描いたのだと思うのである。そしてそれ以前に、繰り返しになるが、現実問題として、しげるさんは、どうしても“ふつうの日常の人物”の造形ができなかったと思うのである。
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しげるさんはときどき些細なことで癇癪を起こし、杖で人を叩いたりすることがあったそうなのである。それもしげるさんの胸の内の憤怒を慮れば、よくわかるような気がするのである。心安らかな日はほんとうに少なかったのだろう、と思うのである。
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実際に、2014年の毎日新聞のインタビューでも「最近、戦争の夢を見る夜が増えた」といい、目の前を通り過ぎる亡き戦友たちに「『おーい!』と声をかけても誰も振り向いてくれない」と語っているのである。また、「日本に戻ってからは『かわいそう』という言葉は使わなかった。この言葉は戦場で命を落とした兵士のためにあるのですから」とも。
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人間の底の底を見てしまったしげるさんは、とうぜん国に対しても不信を抱いたはずである。しかし同時に、それを声高に叫ぶことで何かが抜け落ちるような気もしていたようなのである。
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「水木さんは国のことはあまり考えません。それよりも自分の生か死--。この二つを戦場では強烈に突き付けられていました。誰が何と言おうと『自分は生きたい』と思うことが大事なのです」。しげるさんは自分のことを「水木さん」と呼んでいたのである。
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しかし水木さんは国の命令によって戦地に赴いたのである。国のことを考えないはずいないのである。その一方で、だからといって自分が国などに対してなにかをいうことは、また別の思潮なり集団なりに与してしまうだろうとして嫌ったのではないか、と思うのである。
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そんなしげるさんは、これまでに何度も国から顕彰されているのである。そしてそのたびのコメントに、反発と韜晦と皮肉とが入り交じっているような、複雑な胸中が窺えるのである。
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■1991年紫綬褒章:「いろいろ妖怪のことをやっていると妖怪が心配するわけですよ。これも妖怪の仕業だと思ってるんですよ」(フジテレビ「直撃LIVE グッディ! 」公式ブログ)
■2003年旭日小綬章:「戦争で死んだ人間が一番かわいそうだ。彼らが勲章をもらうならわかるが、戦争から無事に帰ってきて幸せに暮らしている者が勲章をもらうなんてどうかと思うよ」(『げげげ通信近況22年度』)
■2010年文化功労者: 「大変ウレシイですね!でも88歳にもなると少しくらいのことでは驚かんね」(『げげげ通信近況22年度』)
顕彰式後、天皇陛下主催のお茶会で陛下に:「ラバウルでは前線の前線のそのまた前線。最前線に行かされました。9人中、私一人だけが生き残ったんです。みんな死にました・・・」(『げげげ通信近況22年度』)
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今年は戦後70年である。しげるさんの憤怒が解けぬままの、この70年はいったいなんだったのか、と思うのである。その凍ったような時間の中で、これからまた、金に抜け目のない連中によって「水木しげるブーム」がつくられるのである。やるせない気持ちにもなるのである。
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だからしげるさん、もうこちらの世情や国なんかのことは、ほんとうに全部お忘れになって、安らかにお休みください。2015年11月30日、あなたの戦争は終わりました。お疲れさまでした。亡き友の笑顔にお会いになれますように。怒りを込めて。(了)


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