2015年12月29日火曜日

日本と世界を救うのは、吉永小百合だ!! 説





吉永小百合である。呼び捨てとはなにごとだ、と早くも叱責する声が聞こえてくるようである。およそ60代以上の男には、それくらい立派なお名前なのである。そこらのオバサンたちに聞いてみても、小百合は別格である。どうやら自分と同じ人間として認識していないようである。






肩書きでいえば小百合は女優ということになる。しかし小百合の「格」はそれだけに収まっていないのである。いまふうの言葉でいえばセレブ、ということになるのかもしれない。しかし自分の有名性、著名性で金を稼ごうなどというさもしいことは、さらさら考えてはいらっしゃらないようすである。中田英寿(38)とは違うのである。






この別格感はどこからくるのであろう? 一庶民、民草なりに考えまするに、まずは「映画女優」であることが大きいのだろうと思われるのである。テレビは 1980年代以降、『夢千代日記』(NHK)などごくわずかのドラマとCMにしか出演していないのである。



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しかも舞台には、まったく出演歴がないのである。これは大物女優としてはほかには岩下志麻がいるくらいで、たいへんめずらしいことなのである。舞台に立つのは、なにかの表彰を受けるときと朗読会、映画のプロモーションくらいのものである。



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夫、岡田太郎(84)は共同テレビの社長、会長、相談役を歴任した人であるから、経済的に安定していることもあるのであろう。ガツガツした印象がまったくない。民草の身からすれば、美貌と名声にさらに経済的なゆとりベースに恵まれた、うらやましいかぎりの人生である。夫との仲までは知らぬ。






で、テレビ、舞台、映画と並べたときに、いちばん距離感が遠いのが映画である。次に舞台、そしてテレビ。テレビとは布団のなかにまで入ってくるくらい親密である。その、かつてスタアの独壇場であった「映画女優」という、いまや孤高の地位をひとり守り続けているのが小百合なのである。



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それでは、もう少し冷めた目で小百合を見てみよう。まずは、決して演技が巧みなわけではないことに気付く。表情などはむしろパターン化されていて、それはそれで安心感にはつながるのだが、生身の人間の存在感といったものはあまり伝わってこない。






小百合は童顔である。しかし首が太い。長年の水泳のたまものである。というわけで、薄幸な女、病弱な役はまったく似合わないのである。役柄が自ずと限られている。しかし薄幸な女、病弱な女が似合わないというのは、女優吉永小百合の明朗なイメージには貢献しているのである。それは、いまとなっては幸運なことに思えるのである。






小百合、今年70歳である。タモリと同年である。学年でいえば早生まれの小百合のほうが1つ上になるはずである。で、12月25日放送の『ミュージックステーションスーパーライブ』を見たのである。BABYMETALのYUIMETALとMOAMETALの背がどのくらい伸びたのかを知りたかったのである。クリスマスの夜に、である。






ところが、BABYMETALの横に立っていた司会のタモリが一気に老け込んでいたのに驚いてしまったのである。半歩ほど前に出たとき「わっ、動いた!!」とハラハラするくらいだったのである。その後もどこかふわふわした感じで、杖がほしいようすだったのである。






それに引き替え小百合である。現在公開中の『母と暮らせば』(松竹、山田洋次監督)では、3年前に原爆で死んだ二宮和也の母親、福原伸子役である。であるから映画内の時間は1948年で、福原伸子はおそらく40代後半の設定である。つまりおよそ1世代分若い役柄を演じて違和感がないのである。水泳のたまものであろうか。功罪、禍福あざなえる縄のごとしである。






小百合とともに日活の青春映画を支えた1960年代のスタア、たとえば芦川いづみ(80)、浅丘ルリ子(75)、和泉雅子(68)、浜田光夫(72)、石原裕次郎(享年52)、高橋英樹(71)のいまを思い起こせば、その若さと健やかさ、屈託のなさには目をみはるのである。和泉雅子など、なにに屈託したのか知らぬが北極点までいってしまったのである。



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小百合には、外見の若さに加えて、世間の垢というものを感じさせない透明感があるのである。70歳のオバサンを捕まえて透明感とは、である。それでは童女性とでもいえばいいのであろうか。



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完全にババアになり、あの世に近づいてからの可愛らしさとは違って、もっと誕生日よりの可愛らしさである。稀な存在である。タモリの二の舞にならぬよう、うっかり気を抜いたりすることのないよう、重々お気をつけいただきたいのである。






これまで、ほとんどまったくといっていいくらいにスキャンダルやゴシップの類に見舞われなかったというのも、日本の芸能人としてはめずらしいのである。それやこれやで永遠の清純派、永遠のアイドル、みたいないわれ方もするわけである。



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もちろん、これも本人の日頃の身の処し方のたまものなのである。あの立ち居振る舞いに一家言をもつ樹木希林(72)が、小百合を見つけると、うれしさのあまり全力で駆け寄るというのである。小百合の自己管理の厳しさが窺われるのである。






同じ小百合でも、世俗の垢と泥をこねくりまわしてできたような上西小百合とは、まったくの別物である。小百合という名前の人物は決して少なくないのである。しかし吉永小百合の前に小百合なし、吉永小百合のあとにも小百合なしなのである。もうしわけないが、ことごとくパート2感が漂うのである。なかでも上西小百合は、まるで悪い冗談なのである。パート無限大の彼方である。






おそらく、吉永小百合を嫌いだという日本人はそういないと思うのである。若年層にもその名前はしっかりと浸透しているのである。日本人とはなんだろう、とボーッと考えることがあるのである。吉永小百合の同朋、仲間ということも、その条件のひとつに入れてもいいのかもしれないと思うのである。極端な話になるが、吉永小百合で日本がまとまる可能性もあるのではないか、とさえ思うのである。いや、民間では絶対に吉永小百合である。






いわゆるスタアには、だいたい何かの象徴としてのイメージが背負わせられるものである。アイドルグループだとそれは友情であるとか、元ヤンだとバカだとか。小百合が背負っているものを強いていえば、昭和の、高度成長経済期の、快活な日本である。であるから、そうだったんだよ、日本ってそうだったんだよ、だからもう一度頑張ってみようよ、という気持ちになるのかもしれないのである。






しかしまちがっても政府にそんな音頭をとらせてはいけないのである。つまらない国威発揚だとか損得勘定を押し付けてメチャクチャにしてしまうのが関の山なのである。経済効果? そんなものは、もうウンザリを通り越しているのである。小百合もそんなものとは絶対に係わり合いになりたくないはずである。心に響くものでやらなければダメなのである。






そう、映画である。日本の全員が関わるような猛烈なスケールの映画である。そしてそれを海外の人々にも観てもらうのである。クールジャパンなど屁みたいなものである。どの国も、体制の違いはあれど、小百合のいる国と戦争をしようなどとは思わなくなるはずなのである。吉永小百合、国の母、はまた置いておいて、国の小母さんである。どや? (了)





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