整理しておこう。世界最大の宗教といわれているキリスト教の信者数は約22億人、割合にすると世界人口の約31.5%である。次に多いイスラム教は約16億人で約23%だ(「ロイター」2012年12月19日配信、ピュー・リサーチ・センター調べ)。
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キリスト教はこれまで幾度となく分派して、カトリック、プロテスタント、東方正教会がビッグ・スリーになる。信者数の割合はおよそ6対4対1といわれ、うちカトリックの信者数は約12億7000万人(バチカン2016年3月7日発表)。するとプロテスタントはおよそ7億4000万人、東方正教会1億9000万人ということになる。その他諸派の方々は計算上省いてしまって申しわけない。
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教義解釈によるサンタクロース(が煙突から入ってきて贈りものをする習慣)に対する態度はビッグ・スリーそれぞれで異なっていて、カトリックは基本的に認めておらず、プロテスタントは賛否両論をもっており、東方正教会ではクリスマスではなく新年の祝に私たちの目から見ればクリスマスツリーのような飾りやサンタクロースのようなお爺さんが登場する。
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つまりキリスト教内においても私たちがイメージするサンタクロースを正式に認めているのはプロテスタント7億4000万人のうちの一定部分に過ぎず、それは世界人口から見ればざっくり20分の1程度のものであろうと思われるのである。
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いい方を変えると、もともとクリスマスは世界で約22億人のキリスト教徒の祭であり、さらにそのうちのプロテスタントの数億人だけが贈りものを担いでやってくるサンタクロースをキリスト教に属するものとして認めているのである。ただクリスマスだからとプレゼントをしたりもらったりしているそのほかの方々は単なるお調子者ということになる。
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ところが世間を見回せば毎年クリスマスシーズンになれば大量のサンタクロースが巷に解き放たれてメリー・クリスマス!! とかなんとかやっている。いったいどうしたわけだ? 世界はお調子者の集まりになってしまったのか?
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いやいやそんな大それたことではない。サンタクロースの習慣はわが日本の節分の豆まきと同じようなものなのである。そもそもは宮中における悪霊払いの年中行事が節分(=クリスマス)であり、宇多天皇の時代に鞍馬山の鬼が出てきて都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が豆まき(=サンタクロースのプレゼント)のはじまりとなった、というニュアンスだと考えるとわかりやすい。
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キリスト教圏においては、4世紀ごろの東ローマ帝国・小アジアのミュラの司教(主教)、教父聖ニコラウスが貧しい人の家に金貨を投げ入れたという伝説がサンタクロースの起源になったといわれている。
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そんなようなわけで、キリスト教の信者でもないのになにがサンタクロースだ!! という非難は当たっていない。それは神道の家でもないのになにが“鬼は外、福は内”だ!! と憤るのと同じようなものである。知ってる? サンタクロースってキリスト教の聖者がモデルだったんだってさ、とそのうちトリビアになる。まずはキリスト教とサンタクロースははっきりと一線を画して考えたほうがよい。
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だがしかしキリスト教の信者ではないのに“メリー・クリスマス!!”のほうはやはりおかしい。このおかしな事態を創出するのにサンタクロースはたしかにおおいに貢献してきた。サンタクロース問題はここから眺めなければならない。
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ミュラの聖者、サンクト・ニコラウスを世界的に有名にするきっかけをつくったのは、17世紀にアメリカ大陸に植民したオランダ人だといわれている。サンクト・ニコラウスはオランダ語でシンタ・クラースと呼ばれ、ニュー・アムステルダム(のちのニューヨーク)でもオランダ系移民者のあいだで、聖ニコラウスの祝日12月6日に、子供たちにプレゼントを配る故国の習慣が引き継がれたのだそうだ。
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考えがちなのはサンタクロースを看板や媒体にしてキリスト教の布教を図ったのではないか、ということだけれども、オランダでは贈りものを担いでやってくるサンタクロースを認めていないカトリック信者のほうが当時もいまもプロテスタント信者よりも多い。そんな移民たちがサンタクロースを布教に利用することはない。15世紀にポルトガルから日本にやってきたフランシスコ・ザビエルもサンタクロースは連れてこなかった。
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この段階、17世紀にニューヨークに上陸したサンタクロースは、すでに日本で節分に鬼を目めがけて豆をまく人と同じ役割なのである。キリスト教の信仰そのものとの縁は深くない。
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フランシスコ・ザビエルの時代、宣教師たちは布教のために世界に散っていった。彼らや教会が求めたのは実はGlory(栄光)、Gospel(福音)ばかりではなくてGround(土地)やGold(金)でもあった、つまり宣教師は未開の地域の植民地化の先兵の役を担っていたのだ、という見方がある。これにサンタクロースを重ねてしまいがちなのかもしれないけれども、それは違う。
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サンタクロースを利用したのはただただひたすらの商業主義である。サンタクロースの贈りものだとかプレゼントの交換だとかは純然たる商業イベントであって、宗教行事ではまったくない。プレゼントをするときに宗教的確信をもって「メリークリスマス!!」と口にするのはプロテスタントの一部、世界中で数億人、世界人口の約20分の1程度の人々にすぎない。「メリークリスマス!!」は、いってしまえば異教徒たちが商業イベントにお墨付きを与え、正当化するための魔法の言葉である。
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で、“文化大国”をもって任じる誇り高きフランスは、そんな商業主義にまみれたアメリカの文化侵略の先兵、ヨーロッパに逆上陸を果したサンタクロースがとうてい許し難いのである。そしてついに1951年、ブルゴーニュ、ディジョン大聖堂でサンタクロース人形を吊し、さらに大聖堂前広場に引きだして火あぶりの刑に処するという事件まで起こる。
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と、ここまでが昨日のお話のまとめと追加説明である。さてここからが今日のテーマ、しかし日本はどうであろうか? まったく抵抗がなさ過ぎではないか? そもそもキリスト教徒でもあるまいし、老若男女ことごとくメリー・クリスマス!! と浮かれ騒ぐ、どうしてこんなことになってしまったのか? である。
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日本は海の向うからやってきた事物を受け容れるのに、歴史的に見てもまったくなんの躊躇もてらいもない感じがある。明治維新から鬼畜米英の時代まで、つまり軍国日本の廃仏毀釈だの国粋主義、思想統制だのを除けば、ほぼくるものは拒まず、とくに強くて大きなものは拒まず、だったように感じられるのである。
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なにしろ昨日も書いたけれども、終戦直後、ついこのあいだまで敵国であったアメリカからやってきたロカビリーで踊り狂い、“日本人は分裂症か?”と報道された日本なのである。
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これには内田樹(67)の『辺境論』だったか、日本はユーラシア大陸側から見れば辺境の辺境で、これ以上後退すれば太平洋に突き落とされるしかない、という位置にある。それで海外から入ってくる事物に反発するのではなくとりあえず受け容れて宥和しようという志向が働く、といった指摘が当たっているような気がする。
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さらに農耕民族であることとかドイツ人ならば直ちにメランコリア(憂鬱気質)と判断されかねないペシミズムなども絡み合っているのであろう。つまりなんでもかんでもウエルカム!! は日本人の気質がそうさせるのである。プライドはないのか? といわれてもそういうふうにできているのであるからしかたがない。
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であるから、昨日取り上げた堀井憲一郎(59)の新刊『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』が指摘している
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「クリスマスを盛大に祝うことは、キリスト教から逸脱していくことになる。だから、積極的に祝いだした。キリスト教と敵対せず、しかしキリスト教に従属しない方策として、クリスマスだけ派手に祝うことにしたのだ。」
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という、たいそう自覚的・戦略的なものでもない。とりあえず、いらっしゃいませどちらさま、の心性がそうさせるのである。開き直っている? 開き直りとは違う。これが日本の文化であり哲学なのだ。
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みなさんはアントニオ猪木の「風車の理論」というものをご存じであろうか? たしか1970年代の後半に語られはじめたもので、いまでは相手のチカラを最大限にひき出したのちに自分はそれ以上のチカラで勝つ、そのことによって自分も相手も輝かせることができる、という考えだと解釈され、用いられてもいるようである。きわめてプロレス的である。
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しかし、「風車の理論」が注目されはじめたころのアントニオ猪木の説明は以下のようなものであったらしい。
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「ある時期、若い選手を相手にケイコしたとき、もう力では俺の手に負えないと、ふと感じたことがあった。~略~ところが彼らが俺を力でねじ伏せようとした瞬間、フッと力を抜くと、彼らの力がまったく作用しない状態が起こった。~中略~人間は、たとえば技を決められたとき、その恐怖心で必死でもがき、それを返そうとする。~中略~もし、瞬間に意識を完全に無の状態にすることができれば、とられた腕の関節は大きく開いていくのだ。そして、相手が決める方向に体を一緒にねじることで、簡単に決め技をはずすことができる。」
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出典はよくわからないけれどもアントニオ猪木の自著らしい。素晴しい。要するに、右からやってきたものをボクは左へ聞き流すう〜(byムーディ勝山)なのである。
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フランスがブルゴーニュ、ディジョン大聖堂でサンタクロース人形を吊し、さらに大聖堂前広場に引きだして火あぶりの刑に処してから20余年、私たち日本からの回答がアントニオ猪木の口を借りて提出されたのである。そしてこちらのほうがより洗練されていると私は感じる。
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サンタクロースの背後にメリークリスマス!! とキリスト教を置き、攻勢を仕掛けてくる商業主義とアメリカ礼賛の文化に対し、私たちは「風車の理論」で応じているのだ。大国アメリカのパワーを受け流す「風車の理論」、これが辺境日本の文化であり哲学なのだ。
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しかし正直なところ現状、意識を無の状態にし過ぎ、またチカラを抜き過ぎて、もしかしてずうっとこのまま永遠にフニャフニャして元に戻れなくなってしまっているのではないか? という不安もなくはない。大陸のほうからは漢字パワーの中国が迫ってくるし。
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しかしやはりそれでいいのだ。滅びゆくもののみが美しいのである。それが美しき日本なのである。(了)
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