2018年10月30日火曜日

一度でいいから「情」というヤツに溺れてみたい


人生は七転び八起き。これはつまり人生はツジツマが合わない、計算が合わない、ということを語っているのだ。はは。しかしワタクシの経験に照らせば人生のツジツマは恐ろしいほど合う。



父親が死んだのはたぶん8年くらい前で、そんなことさえはっきりと覚えていないほど悲しくなかった。涙も出なかった。3年前に飼い犬が死んだときのほうが何倍も何十倍も悲しかった。あたり憚らず声を上げて泣いた。



父親も飼い犬も、その時代なりごくふつうに生きてごくふつうに死んだ。ワタクシと特別な因縁などない。なぜ悲しくないのだろう? とずっと考えていて、とりあえず基準を低く合わせ、ワタクシは冷血な人間なのだと考えることにしていた。



しかし気付けばそれはとても簡単なことだった。父親と過ごす時間より飼い犬と過ごした時間のほうがずっと長かった、そして話をしない父親よりも話ができない犬のほうがはるかに感情移入しやすい、それだけのことだ。数十年一緒に暮らした父親より約十年暮らした犬のほうがずっと身近だった。父親は仕事で忙しかったし。



そしていま母親が死のうとしている。母親との接触時間の合計は父親とよりも死んだ飼い犬とよりももっとずっと長かったはずだが、これまた悲しくない。まったく悲しくない。



たしかに父親をひとつの生きがいのようにして生きてきた母親はその父親が死んでからというもの生きる目標や希望をまったく失い、それこそ生きる骸といったようすであったから、ようやくその長い人生の締めくくりを終えられるのだという一種の安堵のほうが強いのかもしれない。しかしそれにしてもこの平静はなんだろう?



いやいや答えはわかっているのだ。父親も母親も子どもに対して愛情を見せることがなかった。ネグレクトとかいうことではなくて、なにをするにしても、してくれるにしても、そこには説明できる立派な“理由”があったということだ。ただ可愛いから、とか思わず、といったことは一度もなかった。ワタクシは子どもじみたことをいっているだろうか?



なので、両親の人生は第一に経済つまり人並みの暮らしを維持することに、そして第2に外形的に幸せそうな家庭モデルを築くことに捧げられたように見えた。いまでは子どもに対する愛情がなかったわけではなく、それを表出するのが苦手、というかもっと深いところで手段を失っていたのだということがわかるけれども。



強烈なのは父親も母親も、2人揃ってそういう人間だった、ということだ。そういう人間、というのをいいかえれば、社会的規範の遵守・体現がすべてに先立つ人間というようなことだ。ともにたどったボルダリング人生。奇跡のカップルではないか。しかしその一方でワタクシたち子どもにとっては機能不全家族だった、といっても許されるだろうと思う。ワタクシは無償の愛というものを知らない。甘ちゃんか?



無償の愛は父親や母親のなかにもちろんあった。あったのだけれどもそれを感じさせてくれることはなかった。だからここへきてつくづく思うのだけれども、愛情や想いは口に出さなきゃダメ。家族だから黙っていてもわかってくれる、などというのは大きな間違い。照れくさくても恥ずかしくても口に出さなきゃダメ。とくに子どもには。



そうしないとその子どもは無償の愛を知らずに生きるばかりか、かえってそそれを疑ってしまうようになる。どこかに理由があるはずだ、と。化けの皮を剥いでやろうという卑屈な想いで周囲の人間を見るようになる。もし子育て中の方がいらっしゃったらくれぐれもお気をつけいただきたい。



そんなこんなで再度の予告になりますけれども、これから数日休ませていただくことが出てくると思うので、そんなときには黒い服着てまたヘラヘラしてんだろなー、本家の長男なのに、と思ってくだされ。では、これにて。(了)



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