嵐、あのジャニーズの5人組アイドルグループである。「アイドル」というと、しょせん子どもかオタクの暇つぶしというふうな、なかば侮蔑的な目で見られがちである。それよりむしろ意味のよくわからない「アーチスト」のほうが上等、みたいな感じすらあるのである。
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しかし、嵐が9月19日から23日まで「ひとめぼれ宮城スタジアム」で開催したワンマンコンサート『ARASHI BLAST in Miyagi』では、4日間で合計約20万人が動員されたというのである。さらに、その経済波及効果は約90億円なのだそうである。嵐、一般世間が考えるよりはるかにデカいのである。
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コンサートの前後は、当然ながら、宿泊施設、交通機関が大混雑に陥ったのである。そのあおりを食って、同時期に予定されていた学界、それにタモリ主催のヨットレース『タモリカップ2015ジャパン東北大会』などが吹き飛ばされたのである。「嵐のため急遽中止」とかいって喜んでいるようすが目に浮かぶのである。いまこれほどのパワーをもつエンターテイメント、あるいは集団は他にはいないのである。
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これは以前にも書いたが、では、嵐のファンはいったいどのくらいの数なのか、である。ファンクラブの会員数でいえば、なんと150万人だそうである。なにしろファンクラブに入会しないとコンサートチケットが入手できないのだそうである。入会金は1000円、年会費4000円である。会費で年間60億円が動くのである。これだけで立派に中堅企業規模である。
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ちなみに単純計算してみると、日本人の83.5人に1人が嵐ファンクラブの会員ということになるのである(総人口1億2527万5千人、2015年4月確定値)。たとえてみると、山口県や愛媛県であれば県民全員がファンクラブ会員であり、鳥取県や島根県であれば、その人口は嵐ファンクラブ会員の約半分なのである。
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どこか空恐ろしげな感じさえするのである。気付かないところでなにかが、静かに着々と進行しているような不安に囚われるのである。そこで今回からなりゆきまかせにはなるものの、断続的にでも「嵐現象/ARASHI phenomenon」を取り上げてみたいと思うのである。
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まずは、ファンについてである。嵐にはARASHIC(アラシック)またはARASHIANS(アラシアンズ)と呼ばれる熱狂的なファンがいるのである。ARASHIANSは比較的新しい呼び方である。ARASHICが嵐自身からはあまり好意的に迎えられていないようだったことと、SHICがSICK(=病気の)にかかって印象が良くない、などからの変更のようである。私としては、ARASHIANSはQRACIAN(クラシアン)を思い出すのである。暮らしあんしん、である。
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しかしSICKにかかったARASHICに愛着をもつ、というファンも当然いるわけである。またメンバーの松本潤(32)が口にしたというARASHIST(アラシスト)なる呼び方も浮上してきたりして、これはこれで落ち着くまでに小競り合いがあったようなのである。それにしてもアラシスト、いかにも松潤らしいではないか。いずれも英文字のほか、平仮名、カタカナでも表記されているようである。
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アラシアンズは熱狂的であるうえに行動的である。さらに情報収集にも長けているらしいのである。たとえば、嵐のCMロケ地などを調べ上げて大挙訪問する「聖地巡礼」は、押しかけられた地元ごとに何度も問題になっているのである。またコンサート会場前の歩道などで、嵐のポスターやウチワを囲んで拝跪する「集団土下座」という奇妙な光景をつくり出したりもしているのである。
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大野智の同棲疑惑報道の際には、同棲相手とされた女性の親戚の家にまで押しかけたアラシアンズもいるのである。もともとファン(fan)という言葉が「狂信者」という意味のファナティック(fanatic=)の略であることを思い起こさせてくれるのである。
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では、どうして「ファン」が「ファナティック」に先祖返りしてしまうのか、である。ここで、あるバンドのファンがファンサイトに残したコメントを要約して紹介したいのである。嵐のファンではないが、ひとつの典型だと思うのである。
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《自分はなにをやってもうまくできず、仲間もなく、気力もなく、つまらない毎日を送っていた。しかしある日、YouTubeでそのバンドと出会った。そのバンドはいままでに見たことのないスタイルで、エネルギーに満ちて輝いて見えた。何度もその投稿ビデオを見ているうち、自分にも頑張ろうという気持ちが湧いてきた。元気になれたような気がした。すると頑張れたおかげで最低ランクだった学校の成績も上がりはじめ、自分に自信がついてきた。もう惨めではなくなってきた。もう以前の自分じゃないと思えるようになった。そのバンドが自分を救ってくれたのだと思う。死のうと思っていた自分を救ってくれたのだ。自分は残りの人生をこのバンドに捧げることを誓う。だってこの命はバンドに与えられたものだから。》
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あるバンドに刺激を受けて前向きに生きるようになったという話である。そこまではいい話である。しかし驚くのは最後の「このバンドに残りの人生を捧げたい」という飛躍である。せっかく掴み直した自分の人生をまた捧げてしまってどうするの、である。バンドのほうにしてもこの話を直接聞かされれば、それはあなたの人生だからあなたが大切に生きるべきだ、とかなんとかいうはずである。
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このコメントからはいろいろなことがうかがえるのである。コメントの主は依存心の強いタイプである。誰かに導かれなければ安心して生きていけないのである。つまりこのバンドはコメントの主にとっての「神」になったのである。アラシアンズの「聖地巡礼」、拝跪する「集団土下座」という言葉と呼応するのである。そして「神」としてあがめる土台には、現実の自分が空虚で無価値だという思い込みがあるのである。そのために神をあがめ、神の目で見、神の言葉で話そうとするのである。
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神の目で見る、つまりそのバンドの主張なり世界観を通して世界を解読し、理解する、また神の声で話す、つまり絶対真理の確信をもって話すことで、コメントの主は、はじめて周囲の世界に正面から対峙することができたのである。これは官能的といっていいほどの快感なのである。幼いころの私にも経験があるのである。多くの宗教はこの快感のチカラで成り立っているといっていいほどだと思うのである。
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いまの世の中で、自分を空虚で無価値だと思い込むのはとても簡単なことである。学校でなにか失敗をやらかしてはじかれれば、すぐにそういう心理に陥る。いまの学生、生徒にとって学校ではじかれるということは、将来を失うことにほぼ等しいのである。職場でならなおさらである。しかし、ほんとうは空虚で無価値な人間などいないのである。もしいるとするなら、人類全体が空虚で無価値なのである。
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依存心の強い人は「神」に忠誠を誓っているわけである。そしてその「神」に裏切られた、あるいはその「神」は思い込みに過ぎなかった、と悟ったとしても、そのときにはすでにまた新しい「神」を見つけているのである。「神」に投影してしか自分を見られないし、考えられないのである。
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で、これは誤解を招く、というか偏見と紙一重なのであるが、基本的にこのタイプのファンに不良は少ないように思うのである。私の考える不良の条件は、「懲りないこと」である。1度や2度注意されてすぐに悔い改めていては不良になる暇もないのである。
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何度いわれても懲りないというのは、流されているにしてもなんにしても、従わないのであるからまだ少しは自分があるわけである。正面切って反抗しているのならなおさらである。そういう人間には自分を投影する「神」はそれほど必要ないのである。したがって嵐のファンには不良は少ないだろうと思うのである。不良はEXILE方面へ行っているのである。ただしこちらは「神」に会いにではなく、部族の集会に参加しにいくのである。
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それにしてもAKB48やSMAP、関ジャニ∞と、それなりの人気を集めるアイドルグループは数多いのである。アイドル戦国時代なのだそうである。そのなかでなぜ嵐のファンが数の上でも熱狂度でも突出しているのか、それはまた次回に考えたいのである。(了)





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