2016年1月28日木曜日

男らしさは姉ちゃんに奪われた!! ジャニー喜多川の急所





ジャニー喜多川(84)。先のSMAP問題ではまったく出番がなかったジャニーズ事務所の創業者です。ジャニーズ事務所の株式の60%を保有する代表取締役社長でありながら、姉で副社長のメリー喜多川(89)に、マスコミを通して関連会社代表からのクビを宣告される、心やさしき弟でもあります。






なにしろメリーときたら「皆さんの前で言います。ジャニーには(「ジェイ・ドリーム」を)辞めさせなさい。私が迷惑するから」なのです(『週刊文春』2015年1月29日号)。そう命令した相手は、例のSMAPの元マネージャー、飯島三智(58)です。これではジャニー、企業人としてまったく立つ瀬がありません。






ジャニー、自宅に新しく設置したエレベーターに4日間も閉じ込められた、というエピソードもあります。2014年のことです。エレベーターの非常ベルはまだつながっておらず、携帯電話も運悪くもっていない状態でした。たまたま、というか、ようやく家の鍵を預けておいた電気店の従業員が洗濯機を届けるために入ってきたので、必死に大声を上げて救出してもらったのだそうです。



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ジャニー、飲まず食わずで4日間も耐え抜いたのです。さすがに意識朦朧だったそうです。しかしそれもこれも、エレベーター会社からの正式な使用許可が下りる前に使いはじめてしまったジャニーの自業自得なのです。



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それにしても、です。4日間も消息不明になっているのに誰も気にしない社長、プロデューサーというのも、なかなかめずらしい存在といわなければなりません。おそらく人に行動を把握されるのが嫌いな、自由すぎるタイプの人なのでしょう。いささか孤独な感じも漂ってきます。



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今回は、そんなジャニー喜多川の人生を眺めてみます。まず最初にどうしても取り上げておかなければいけないのは、同性愛についてです。ジャニーの行動全般に色濃く影を落としているからです。そしてこれはもう、ジャニーズ事務所を立ち上げた1960年代からたびたび報道にも取り上げられてきた事実です。






もっとも記憶に新しいのは、おそらく1999年にはじまった『週刊文春』との「セクハラ・児童虐待」裁判でしょう。 ジャニーが所属タレントに対して同性愛行為を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙などがあると報じた『週刊文春』に対し、ジャニー側が名誉毀損だとして民事訴訟を起こしたものです。



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ジャニー側の請求は、1億2000万円の損害賠償と謝罪広告の掲載です。1億2000万円!! かなりスラップ(SLAPP、strategic lawsuit against public participation.=威圧訴訟、恫喝的訴訟)な感じです。しかしスキャンダル報道には定評の『週刊文春』。このくらいでは動じません。最終的には、2004年、最高裁で『週刊文春』側に120万円の損害賠償責任と同性愛行為の認定が確定しています。



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120万円は、同性愛行為以外の記述に関しての損害賠償です。 ほとんど『週刊文春』の全面勝利です。『ニューヨーク・タイムズ』、『オブザーバー』などの海外メディアもこの裁判について取り上げ、とくにこのニュースをタブー視して取り上げない日本のメディア事情に強い関心を寄せていました。






ジャニーの同性愛についての記録は、1960年前後にまでさかのぼります。ジャニーが駐留米軍の「軍事援助顧問団」勤務のころ(1958年〜1966年)に、新宿、花園神社界隈のゲイバーで遊んでいたこと、また新宿駅南口で田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿にしていた「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことなどが暴露されています。当時のゲイ仲間であった原吾一という人物が、その著書『二丁目のジャニーズ』(鹿砦社 )に書いています。






また、1964年6月28日には、15人の男子生徒たちにセクハラ行為をしていたことが発覚して、池袋の芸能学校「新芸能学院」を解雇されています。このときに一緒に行動したのが、真家ひろみ(享年53)、飯野おさみ(69)、あおい輝彦(68)、中谷良(不詳)という、「ジャニーズ」のメンバー4人でした。






この一件は「新芸能学院」のオーナーとのあいだで裁判沙汰になり、ジャニーズメンバー4人の証言記録は週刊誌にも掲載されました。また、1980年代に入ると、中谷良をはじめ、元フォーリーブスの北公次(享年63)、元ジューク・ボックスの小谷純(不詳)、やなせかおる(不詳)、元ジャニーズJr.の平本淳也(49)、山崎正人(45)などが、次々に告白&暴露本を発表しました。






次に、ジャニーズ事務所設立に到るまでの経歴を、把握できた範囲で整理しておきます。朝鮮戦争への従軍時代、そして駐留米軍のスタッフとして働いていたワシントンハイツ時代と、いつもおおぜいの子どもたちに囲まれているのは、果たして偶然なのでしょうか?






[ジャニー喜多川:誕生から「ジャニーズ事務所」設立まで]
1931:10月23日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス市に生まれる。父、喜多川諦道、母、栄子。泰子(やすこ、メリー喜多川)、真一(まさかず)、そして次男の擴(ひろむ、ジャニー喜多川)の3姉弟である
1933:一家はサンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、帰国。大阪に定着する
1934:母栄子、京都にて死去。このときジャニー3歳
1942:和歌山市の有力者・大谷貴義の庇護のもと、和歌山県東牟婁郡勝浦町「中ノ島」の南紀勝浦温泉に姉兄とともに身を寄せて疎開。父・諦道だけが大阪に残る
1945:第2次世界大戦、終戦
1947:ジャニー、旧制中学を卒業。「市民権(米国籍)が無くなってしまうから」との理由で、姉兄とともに渡米。このときジャニー16歳
渡米後、ハイスクール→ロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College)を卒業
1952:兄の真一とともに朝鮮戦争に徴兵される。同年、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)の情報員(通訳の助手)として再来日。 広島県江田島市の海軍兵学校跡地の米軍の学校でわずか10ヵ月で朝鮮語をマスターし、韓国の板門店に出向き、1年2ヵ月間にわたって子供たちに英語を教える
1954:除隊。日本に残り、上智大学国際部に社会人入学
1955:バンドを結成。大学卒業後に解散
1958:ワシントンハイツ内の独身米軍士官向け4階建ての宿舎(1955年建設)に住みながら、駐留米軍「軍事援助顧問団」の事務職員として勤務
またワシントンハイツの近所の少年たち約30名を集め、野球を教える。ここで「ジャニーズ」のメンバーとなる4人と出会う
1962:4月、はじめてのアイドルグループ「ジャニーズ」を結成し、「新芸能学院」 に籍を置く。ジャニーは特別クラス「芸研」でジャニーズの4人を指導。ジャニー31歳
1964:「新芸能学院」を離れ「ジャニーズ事務所」を設置
1966:「軍事援助顧問団」を正式に退職
1975:「ジャニーズ事務所」を株式会社として法人登記



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ジャニーの人生で注目されるのは、父、喜多川諦道の天衣無縫、破滅型の生き方と、姉メリーの強さです。ジャニーはどこか浮世離れした父親の性格を受け継ぎながら、その父に代わるようにして弟たちを育てた逞しいメリーの翼の下で、今日まで生きてきました。ジャニーの好きな言葉だという「勝てば官軍」も、そう考えると、どこかノホホンとした感覚が滲んでいるように思います。



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ジャニーの父、喜多川諦道は1896年大分県生まれ。8歳で出家し、和歌山県高野山の導師となった人物です。高校時代は甲子園にも出場しましたが、長じてからは放蕩三昧で、自ら「やくざ」とか「遊び人」と称する異色の職業僧侶でした。まあ、僧侶なのに「道を諦める」という名前なのですから、推して知るべし、な感じです。



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で、1924年、諦道は真言密教の布教のために世界一周の旅に出発します。ちなみに妻の栄子とはこれ以前に結婚しています。で、辿り着いたロサンゼルスのリトル・トーキョーの一角にある高野山真言宗米国別院では、当初2~3ヵ月間だけ助法するつもりでした。






しかし、当時の主監が急に帰国することになり、急遽、諦道が第3代主監を任されます。 以後、帰国する1933年までの9年間、活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となったといいます。後年、諦道を知る現地の日系人は「お祭りが好きな人だった」と語っていたそうです。



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1933年に一家で帰国して、戦後の諦道は、橋本三郎(不詳)が1946年に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター」(後の金星スターズ、大映スターズ)のマネージャーを務めました。 おそらくは1933年からこの終戦までのあいだに、なにかきっかけとなる出来事があって仏道を諦道してしまったのだと思います。そこのところはまったくわかりません。



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ただ、諦道の書が、あじさいの庭園で知られる京都府長岡京市の「柳谷観音」の上書院にいまも飾られていますから、やはりそれなりの地位に就いた僧侶であったことは確かなようです。






「ゴールドスター」のマネージャーを退職したあと、諦道は、同球団オーナーの親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて昭和40年代にそのまま「杵萬」で逝去します。葬儀はひっそりと行われ、ジャニーやメリーが姿を見せることもなかったといわれています。






破滅型の生き方のためでしょう、1942年に疎開のために別れてからは、子どもたちとの縁も薄かったようです。一部のジャニーの経歴には「一人で大阪に遊びに行った帰りに、1945年7月9日深夜から7月10日未明にかけて、和歌山市街にて『和歌山大空襲』に遭遇した」とありますから、あるいは一緒には住んでいなくても交流はあったのかもしれません。






とはいえ、1947年には、21歳の姉を筆頭に、兄真一 と16歳のジャニーという子どもたち3人だけで再度アメリカに渡っているわけです。父親には頼らずに自分たちの道を切り開いていこうとした、おそらくはメリーの決断でしょう。リトル・トーキョーの高野山真言宗米国別院という拠り所はあったにしろ、たいへんな勇気だったと思います。






この時点で姉弟は、はっきり父親を捨てたのだと思います。しかし、そうして父を捨て、ポンとアメリカに渡ってしまうところこそ、皮肉にも父親譲りの向こう見ず、ということができるのかもしれません。






アメリカへ渡ってからのジャニーとメリーは、ハウスボーイをしたり、日系人の写真館の仕事を手伝ったり、メリーは日本語学校で教えたりして生計を立てていました。また、高野山真言宗米国別院のステージをコンサートに使用した美空ひばり(享年52)や川田晴久(享年50)らとの知己を得たのもこのころです。



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優秀だった兄の真一はUCLAを卒業し、航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル」のエンジニアになりました。徴兵されて従軍した朝鮮戦争終了後も「ノースアメリカン・ロックウェル」でNASA関連の仕事をし、 アポロの設計にも携わりました。



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しかし、その真一が1985年、くも膜下出血で倒れます。治療のため日本に帰りますが、しかし結局、そのまま大阪の病院で息を引き取ることになります。そしてそのとき、真一を日本に連れ帰ってきたのもメリーでした。



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除隊後のジャニーの行動は、前記の経歴の通りです。そこでの、ジャニーズ事務所が本格的に稼働するまでのジャニーは、いわゆる米軍の軍属のような立場です。つまり、1964年6月に芸能事務所「ジャニーズ事務所」を起こし、1957年に帰国していた姉を迎え入れるまで、ジャニーは米軍の庇護下にあったのです。いつも誰かに守られて生きる人生です。羨ましい限りです。






ちなみにメリーは帰国後ホステスなどを経て、ジャニーズ事務所に加わるまで、東京四谷でカウンターバーを経営します。ここで知り合った藤島泰輔(享年64)とは不倫→出産を経て、1972年になってから結婚しています。このときの子どもが、現在メリーと同じく「ジャニーズ事務所」の副社長を務める藤島ジュリー景子(49)です。まだ戦後のドタバタが続いていた時期の、女の生き方のひとつの典型のような気がします。



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それにしても思うのは、喜多川3姉弟の、それぞれの優秀さです。兄の真一はNASAの仕事に従事したほどのエンジニアですし、ジャニーは軍務についたとき、読み書きも含め、わずか10ヵ月で朝鮮語をマスターしたといいます。草彅剛もびっくりのスピードラーニングです。



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そもそも、1933年に家族揃って帰国したとき、ジャニーはまだ2歳、メリーは7歳です。1947年に再度渡米したときには、姉弟3人とも、英会話などとても覚束なかったはずなのです。






そこから姉に手を引かれるようにして歩んできた人生です。なんだか『人生の並木路』です。いまだにジャニーの頭が上がらないのはあたりまえといえばあたりまえです。いくら自分が会社の株の60%をもち、姉のメリーは10%でしかなくても、この姉と弟の力関係はおそらく永遠に不変です。






メリーの強く激しい気性が、ジャニーをつくりました。で、ジャニー、2012年の長者番付では、年間所得8億9000万円です。ずいぶん恵まれた人生だと思うのは、やっかみでしょうか。正直、顔さえ別だったらジャニーでもいいかなあ、と思います。ま、こんなバカなことをいっている段階で、すでに8億9000万円ははるか彼方に飛び去っているわけです。






最後になりましたが、ネット上には喜多川一家の帰国を1942年としている記述が散見されます。しかし、それは誤りです。1942年はアメリカで日系人の強制収容がはじまった年であり、また日米第一次交換船の運行もあったので、そのあたりの歴史的事実が混同されたのではないでしょうか。(了)





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