2016年3月1日火曜日
〈六輔〉テレビも年寄りばかりになって、もううんざり〈巨泉〉
曾野綾子(84)が「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』がある」という奇天烈な発言をかましたのは『週刊ポスト』2月1日発売号でした。とうぜん「あなたからどうぞ」と猛烈に批判されていますが、最近、私には深ーく腑に落ちることがひとつありました。
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建築家の安藤忠雄(74)が東大生を指導した感想として、一生懸命勉強をして東大に入ったのだろうけれど、みなアタマが固い、そのことを本人達に話すとちゃんとわかってくれる、しかし最後の最後で“でも自分だけは違う”というのが出てくる、これはほんとうにどうしようもない。というようなことを、どこかに書いていました。“最後の最後で”というところに忠雄の深ーい深ーい徒労感が滲み出ています。
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綾子の場合もきっとこれでしょう。自分のことを棚に上げて、とかむかしからさんざん戒められてきているはずなのに、自分から深ーい深ーい落とし穴にはまっているわけです。恐ろしいことです。
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生き死にではなくても、仕事や交流関係などでの、いわゆる引き際のタイミングをどう計るかという問題は、どこにでもあります。ここでも“自分だけは違う”という気分が妥当な判断の邪魔をします。まあ、これも綾子がよい見本ですね。くだらない御託を並べるのはやめて早く死んでね、といいたくなります。恐ろしいことです。
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こうした人物が相手では、誰が印籠、おっと間違いた引導(byガリガリサリ=加藤紗里は狩野英孝の“本命彼女”)を渡すか、という話にしばしばなります。だいたいは誰も引き受け手がいなくて立ち消えてしまいます。
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2月26日に放送された『徹子の部屋』を観ていて、綾子も徹子も、というか人間て誰でも“自分だけは違う”ってしがみつくのね、そんなもんでしょ、という深ーい納得があったわけです。で、誰も引導を渡そうとしない。徹子、ご老体にそうとうの無理をさせていることがありありと窺えました。
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それでも、引き際を探っているならまだいいのです。困るのは“死ぬまで現役で頑張る”と決め込んでいらっしゃるように見えるからです。それはたいへんにご立派なお覚悟だとは思います。きっと賞賛もされるでしょう。しかし、肝心の観客や視聴者のことはなおざりです。老いさらばえた姿を見せつけられるのは辛いものです。
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思い出されるのは昨年、2015年9月24日に亡くなった川島なお美(享年54)です。その約2週間前の9月7日にはシャンパーニュ『COLLET』のブランドローンチ&新商品発表会に出席していました。しかし「長引くと辛い」と、およそ5分で退席してしまったのです。
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驚いたのはそれからわずか2日後からのミュージカルに出演予定があり、それをこなしていたことでした。ブランドローンチ&新商品発表会での写真を見る限り、酷くやせ細り足元が浮いている感じで、状態が酷く悪いことは誰の目にも明らかでした。生気のない萎んだ顔には縦に大きなシワが走っていて、はっきりいうと死相すら浮いていたのです。
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で、このとき川島なお美本人、またご家族のみなさんにはたいへん申しわけないとは思いつつ、「死に行く者のエゴイズム」をテーマに文章を書きました。それは、芸能者として、求められれば死ぬまでステージに上がるという覚悟は素晴らしいけれども、肝心の芸のクォリティを落としてまでやるべきことなのか、という疑問を呈したかったからです。
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芸の質、観客や視聴者の満足、ということを考えれば、どこかに引き際があるはずです。それを無視してもなおやり続けるというのならば、それは自己満足でしかありません。川島なお美の壮絶な死は美談として扱われることが多いようです。しかし私は、そんな考えから少し立場が違います。
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命のギリギリまで、命を削って、ヨタヨタになりながらも現役でいることのプラスは、たぶんファンに永久の別れへの心構えがつくられる、というくらいのものだと思います。黒柳徹子の場合、申しわけありませんが、私のなかにはすでにそれがすっかりでき上がっています。しかし残念なことに、徹子は“死ぬまで現役で頑張る”と思い込んでいます。
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まあ、人それぞれに事情があって、銀行や家族が休ませてくれないというようなこともあるでしょうけれども、少なくとも黒柳徹子に関しては、そんな経済的な問題は抱えていないはずです。
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最近は観るのも辛くなっていた『徹子の部屋』を2月26日にかぎって観てみようと思ったのは、大橋巨泉(81)と永六輔(82)の2人がゲストの回(2016年2月4日放送分)があったと聞いたからです。それと、26日のゲストが還暦を迎えた麻丘めぐみだったからです。
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でもって、それぞれ重篤な病を抱えている高齢の大橋巨泉(癌)と永六輔(癌、パーキンソン病、)が、徹子と3人でどんなふうに暇つぶしをしたのかを知りたくて、それには最新の徹子のようすを観てみようと思ったわけです。で、2月26日の時点で、巨泉-六輔-徹子の3ショットは見なくてよかったなあ、とつくづく思いました。
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徹子、一見するとまるで妊婦のごとくお腹が丸く膨らんでいました。徹子が妊娠するとは考えにくいので、お腹になにかを入れていることになります。なんだろう? と考えてもわからないので、クッションということに決めました。上半身がむやみに前傾するのを防いでいるのです。
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靴の底が厚いのは、おそらくソファに座ったときに膝に負担がかからないように、という配慮なのだと思います。ここいらあたりはまったく情報がないので、あて推量するしか手だてがありません。そして相変わらずろれつが回っていません。私のアタマのなかのように。
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そんな徹子に、80㎏から50㎏にまで体重が激減した巨泉と、車いすに乗ってフニャフニャいっている六輔が絡んで、いったいなんの話を、と思ったら、2人は番組の40周年を祝う約束をしていたので駆けつけた、といっていたそうです。別に話があるからやってきていたわけではないのです。
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もう、なんといいますか、老人天国なわけです。みなさん番組の倍以上生きていらっしゃるわけです。3人の年齢の合計が245歳です。小学校2年生、35人学級のひとクラス全員分の年齢とイコールです。恐ろしいことです。
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そういえばむかし、盆の墓参で偶然、親戚の一家と一緒になったことがありました。親戚のババアとウチのババアが思わぬ再会を抱き合って喜んでいるのを見て、つい「地獄のフタが開いたようだ」といってしまって、しこたま叱られたことがありました。きっと2月4日の『徹子の部屋』もそんな感じだったのでしょう。そうそう、2月26日の麻丘めぐみは、ディズニーアニメ『ピノキオ』に出てくるコオロギのジミニーみたいでした。これはこれで恐ろしいことです。
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で、もちろん私見ではありますが、黒柳徹子はもうトットと引退すべきだと思うわけです。トットと引退ちゃんです。すでに引き際を誤ってしまっているのですから、できるだけ早く、あとに続く老人達に範を垂れていただきたいものだと思います。
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黒柳徹子はおしゃべりの人なのですから、入れ歯がカチカチ鳴り、ろれつが回らなくなった段階でお終いと考えるべきなのです。ゲストとの会話が噛み合わない、用意された質問の原稿を順番に読み上げるだけになった、あげく“お笑い殺し”の異名をとるようになった、などは論外です。いまの徹子なら、ロボットの「Pepper」やiPhoneの「siri」とのほうが会話が弾むってものです。
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役者にしても歌い手にしても、若い人が老人の演技をするのにさほど違和感はありませんが、老人が若い人の演技をすると激しい違和感があります。ですから、老人はみんなトットと引退するべきなのです。
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では、それでは何歳ぐらいが引退の潮時か、といいますと、徹子は64歳頃に上顎を入れ歯にし、67歳頃には下の2本だけを残して総入れ歯にしたそうです。20年ほど前のお話になります。その時点から注意信号が出ていたのです。
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ですからだいたい60代に入ったら引退、と考えていいような気がします。なんだか企業の定年と妙にリンクしていて気が退けますが、いいころあいではないかと思います。じゃあそれから先はどうしろというのだ? という声が聞こえてきそうです。
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厚生労働省の発表によりますと、2014年の日本人の平均寿命は女86.83歳、男80.50歳だったということです。確かに60歳で引退すると、そのあと20年以上もの空白があることになります。で、セカンドキャリアとか人生二毛作とかいってみたりするわけです。よく聞く話です。
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しかしそれではつまらないと思います。まず、人生を「誕生」から「死」までの1本の時間の帯として考え、それになにごとかの結構をつけようとしているところが面白くありません。まあ、むかしなら60歳くらいでいちおう起承転結の区切りがついたのでしょう。
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しかし、そうこうしているうちにこの時間の帯がゴム紐のようにズルズルズルズルと長ーく長ーくのびてきたわけです。で、起承転結では間に合わなくなって、セカンドキャリアとか二毛作とかいって、起承転結の“転結”あたりをもう一度繰り返しましょう、という案が考え出されたわけです。起承転結転結。まさに泥縄式です。
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いっとき五木寛之がいっていた「林住期」ですか、も同じようなものです。インドの考え方で、人生を「学生期」、「家住期」、「林住期」、「遊行期」と4つに分けるそうです。で、起承転結と違うところは、各期間25年として、厚かましいことに100歳まで生きると前提しているところです。そうすると「林住期」は50歳から75歳であり
《前半の五十年は、世のため人のために働いた。五十歳から七十五歳までの二十五年間、後半生こそ人間が真に人間らしく、みずからの生き甲斐を求めて生きる季節ではないのか―。》(by五木寛之)
とかなんとかなるわけです。しかし、つまらん、つまらん、まったくつまらん!!(by大滝秀治)のです。これでは起承転結をただ伸ばしたり膨らませたりしているだけの話ではないですか。そこでご提案したいのは、完全な人生の転換、ひとりパラダイムシフトです。もし違う自分になれたら、というアレです。
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というか、人生80年もの長きにわたるようになりますと、ワンコンセプトで歩き通す、ないしは走り切るのはムリなのです。私の観察によりますと、だいたいやはり60代、70代でボロが出てくる人が多いですね。
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たとえば謹厳実直だったはずのお父さんにセフレがいたとか、エッチなコレクションが山ほど見つかったとか。これ、むかしのように60歳くらいで死んでくれていれば、家族にとっては一貫して謹厳実直なお父さんのままでいられたのです。
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凄くアタマのいい人だったはずなのに、けっこうなバカがバレる、というケースもありました。その人のいうことを真剣に受け止めて聞いていたのに、ガッカリ、と嘆いていましたね。飲み屋のママ。まあ、アレです。飲み屋っていうのは人様の人生や世間を裏側から眺められるところなので、そういうような経験が多いみたいです。
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ひとりパラダイムシフトをするにはどうするか、といいますと、まず、1人になります。家族がいたら、別れろ捨てろとはいいませんが、離れて暮らします。次に人間関係を、できるだけすべて入れ替えます。これだけでずいぶん違う自分になります。
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そして着るものを変える、歩き方を変える、話し方を変える。とくに着るものの趣味を変えると気分は大きく変わります。で、自分の名前の最後に、新しい人生のコンセプトにふさわしいフレーズを加えます。“MILD”とか“HARD”とか“GOLD”、“DIAMOND”、“SENSUAL”なんかですね。
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大丈夫です。きっとうまくいきます。人間なんてみんなそんなものなのです。自分だけは違う、などとはくれぐれも思わないようにしてください。(了)
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