事務所があれだけプッシュしているのに木村拓哉(43)の人気はなぜ回復しないのだろう? ブログの媒体特性はどう考えればいいのだろう? “炎上”のメカニズムはどんなものだろう? と、言葉にすればそれなりであるけれども実はたぶんバカな悩みを抱えつつ、「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ ★NORIKA's sensation★」 を覗いてしまったのである。
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この藤原紀香(45)のブログの、いったいなにが私をひき付けるのか、それもそのうち真剣に考えなければなるまい、と思って、いまひとつ気がついたことがあるのである。もう最近は後回しにしたことをすぐに忘れてしまうので先に書かせてもらおう。
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デザインが死を連想させるのである。あなたもぜひ覗いてみてください。ページを開いた瞬間すぐに、きっと暗く不吉、イヤーな気分にとらわれるはずである。ああ、どうしていままで気がつかなかったのだろう。いつもいつもイヤーな気分にさせられていたのに。なぜ、その正体を掴もうとしないで我慢していたのだろう? たぶん無意識に忌避していたのだろうなあ。そういうシロモノをみなさんにお奨めして恐縮ではある。
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死のイメージを発散しているのは、ページトップに大きくレイアウトされている藤原紀香の全身写真である。ふわりとしたワンピースを着て長いソファに横向きに座り、脚を上げ、立てた膝に頬杖をついている。撮影時に照明をたいているので、藤原紀香の正面からも背中方向からも光がきている。自然界ではあり得ないこの光は黄昏色をしている。
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最も恐ろしいのは、長いソファーの上に脚を上げ、ほぼ体育座りの恰好で座っている藤原紀香が左側を向いていることだ。マヒダリ。しかもカメラの角度は水平である。これはこうしたポートレイトの場合、たいへんめずらしいのである。どうしても左向きにしたいのなら、顔のクローズアップかバストアップにとどめる。あるいは、かなり上から見下ろした角度で撮る。ああ、なんだかこの写真を見続けているだけでアタマが痛くなってきた。マジで。
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で、画面構成の向かって左側は過去を表し、右側は未来を表す。ゲシュタルト心理学でも、むかしからの物語絵画の展開も、画面上の時間の流れは左から右である。左側の「過去」はすなわち、死、絶望、暗黒であり、右側の「未来」はすなわち、生、希望、光である。人間はそういう印象をもつようにできているので、自然ななりゆきとして左向きのポートレイトはあまり撮られないのである。
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もうひとつ、たとえば「硫黄島の星条旗」という、5人のアメリカ海兵隊員と1人のアメリカ海軍兵が硫黄島の激戦地、摺鉢山の頂上に星条旗を立てようとしている姿を撮影した写真がある。史上もっとも有名な報道写真のひとつといわれているらしい。あの写真では、なにかのチカラで左側に倒れようとしている星条旗を左側から5人が支えになって押し返し、こちらに背中を向けているもう1人がポールのより下部を掴んで引き戻そうとしている。ただみんなで横にして運んできた旗をそこに立てるという軽い動作ではない。力がこもっている。
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つまり、「硫黄島の星条旗」は死、絶望、暗黒の方向に傾きかけている星条旗を、渾身の力で生、希望、光の方向へ立て直そうとしているシーンなのである。そして不思議なことに星条旗、その旗は左から右に強く吹く風になびいているのである。旗を立てようとしている兵士たちにしてみれば、順風、追い風である。ではなぜ、その星条旗は合計6人の男たちがチカラを合わせなければならないほど強く左に傾こうとしてているのだろう? 先に「なにかのチカラで左側に倒れようとしている」と書いたのはこのことである。不思議だが感動的な写真である。
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で、「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ ★NORIKA's sensation★」の藤原紀香は、 左側の「過去」すなわち、死、絶望、暗黒を真っ向から眺めて微笑んでいるのである。黄昏色の、自然界にはない光を浴びて。生、希望、光に背を向けて。さらに藤原紀香自身の、きわめて人工的なつくり笑いが、恐怖のトドメをさす。なにかを隠しているようなつくりものの笑い、あるいは19世紀にイギリスなどでよく撮影された死後の記念写真といえば極端だけれども、生命感のない笑い。それにしても顔がデカい。
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ともかく、「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ ★NORIKA's sensation★」で左を向いた写真を使っているのは、だからどうしてもそうしたい理由があったからである。たぶん藤原紀香の顔の都合だろう。左側のほうが映りがいいのーとかなんとか。
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冒頭のこの写真で不吉な思いを植え付けられて、次にスクロールでせり上がってくるのが本文である。これがまたセンター揃えなのである。シンメトリー、むかしから仏壇レイアウトとよばれているヤツである。精神性、神秘さ、宗教性を感じさせるのである。おお、考えてみればもうすぐお盆ではないか。くわばらくわばら。
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しかも2016年8月9日付「北海道からコメント返し」というタイトルのページには、さらにまたトドメがあったのである。それは本文の終り近くに挿入されている手の写真である。地図の上の距離を親指と人差しを広げて計っているクローズアップである。
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写真には右手の親指、人差し指、そして中指の一部が写っている。その指がいささかくたびれて汚いのである。手の甲側から、しかも指を伸ばした状態で撮っているので、指関節の皮膚のより具合、色素の沈着度合いがあからさまに黒ずんで見える。若干アウトフォーカスになっているので、産毛および毛穴は見えない
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さすが45歳といってしまえばそれまでだけれども、ナマナマしい、というか生臭い感じすら起こさせる写真である。手、とくに死者の手というのは、不気味さ、怪奇さを演出するときによくフィーチャーされる小道具だということを思い出させてくれたのである。
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しかしなんのためにこの写真があるのだろう? 広げられている北海道地図には見える範囲に縮尺率が示されていないし、藤原紀香の親指と人差し指のあいだが何百kmあるのか、こちらは知らないのである。ただ函館と札幌は遠いと表現したかっただけなのであろうか。それを地図の上に広げた手の写真では、イメージカットにもならないではないか。異様である。もうすぐ地獄のフタが開くお盆なのである。
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まあ、まるで黄泉の国に連れてこられたような「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ ★NORIKA's sensation★」である。であるからたぶん私は死の気配をここに感じていて、その正体を確認したいという気持ちでひき付けられていたのだと思うのである。暗闇のなかから聞こえるうめき声の正体を確かめに、怖い怖いと思いながらも森に入っていく子どもみたいなものである。
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本題に戻ろう。事務所があれだけプッシュしているのに木村拓哉の人気はなぜ回復しないのだろう? ブログの媒体特性はどう考えればいいのだろう? “炎上”のメカニズムはどんなものだろう? であった。で、もうだいたい答えの見通しは立ったような気がする。キーワードは「等身大で全人格的に」である。
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ちなみに2016年8月9日付「北海道からコメント返し」とタイトルされた「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ ★NORIKA's sensation★」には、たしか今日(8月11日)、帯広で千秋楽を迎える予定のミュージカル「南太平洋」の観客から送られてきた感想のコメントが5名分紹介されていて、藤原紀香がそれに返礼しているのである。
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え? お客さまからのコメントに応えるのに、そのタイトルが「コメント返し」? 失礼ではないか、藤原紀香。呪い返しでもあるまいし。こういうズサンなところも目を離せないところなのではあるけれども。えええ?? 函館市近くの北斗市での公演のあと北上して札幌市、を素通りして帯広市? 北海道公演は北斗市と帯広市、しかも各1回公演だけ? 都内は新国立劇場中ホールで4日6公演だけ? もうみんな飽きたからってこと? ツッコミどころ満載である。
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で、まあ観客5名様からのコメントは、これはもちろんもう、もろ手を上げての大絶賛なわけである。それに「脚本、脚色、訳詞、曲、すべてに力を感じます」とか「ネリーはもう私の一部です」とか「次へのエナジーがまた湧きます!」とか、いささか手前味噌&メンドくさい「コメント返し」が添えられているのである。
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ブログは個人が発信する媒体であるので、こうした内容は、取扱い方によってはひどく驕慢な自己宣伝ととらえられてしまう。この「氣愛と喜愛で♪ノリノリノリカ ★NORIKA's sensation★」のように、ブログ上でプライベートと仕事のPRとがシームレスにつながっている場合は、なおさらそうである。友達として話をしているのか? それとも人気取りの仕事として話をしているのか? と疑念を抱かれてしまっては、その時点で炎上の火種を抱え込んだといわざるをえないのである。
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つまり、コイツ友達ヅラして話してくるけど、ほんとうはなにか売りつけたいんじゃないのか? という、比較的身近な人間に対してするような見方を、私たちはメディアの登場人物に対しても行っているのである。置かれた立場、経済状況、下心などまで忖度しながら、「等身大で全人格的に」その人物を評価している。歌手は歌で、ダンサーは踊りで、小説家は作品で評価してくれればそれでいい、とはいかなくなっているのである。
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これはテレビというものが普及してから約半世紀かけて育ててきた新しい態度である。テレビが普及する前、約半世紀も前には、他人の顔をマジマジと見つめるなどということは、まったくできなかったのである。そんなことをしようものなら、即座に注意を受けるか喧嘩になるか、あるいは遠ざけられるかだったのである。
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もし、ある芸能人がある出来事で、現代の「等身大で全人格的」な評価に晒され、落第してしまったとすれば、それはすなわちその人物の全否定なのである。そして、なにをやっても喋っても嫌われる、という状況が発生する。それは、ついにはやらなくても喋らなくても嫌われる、という事態にまでも発展する。個人の発信ツールであるブログはとくに厳しい「等身大で全人格的」な評価の目に晒されているということがいえる。いまは懐かしいベニーオークション詐欺事件で一般の怒りが凄まじかったのもそのためだろう。
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木村拓哉の場合はブログではないけれども、そのイメージ回復の仕掛けが「等身大で全人格的」な評価にはとても耐えられない古めかしさなのである。歌手は歌で、ダンサーは踊りで、と先ほど書いたけれども、これと同じようなことで、行動や発言だけで評価しろといっても、もうそれではおさまらないのである。ものごとにはすべからくウラ、いい方が悪ければそこに到る事情があるということを、もうみんな知っているのである。そこを見きわめた気分にならないと評価はしない。
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たとえば、木村拓哉“も”熊本大地震の被災地支援活動に遅ればせながら参加した、というニュースは、たぶんひとむかし前だったら好印象で迎えられていたはずである。しかしいまの時代の私たちは、そのニュースを聞いて、どうしていまになって? 事務所の指示? なぜ石原軍団と? と考える。そして、どうもうさん臭い、となる。
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しかもその前に木村拓哉は、SMAP分裂・解散騒動のときの寝返り疑惑ですっかり「等身大で全人格的」に否定されているのである。であるから、かえって中居正広が先に炊き出しをやって称賛されたからだろ、という皮肉な目でしか見られないのである。薮からスティック!! おっと間違いた(by荒木経惟)、薮スネーク!!
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木村拓哉が引きずっているファン=アンチは、すっかり年季の入った方々が多い。「等身大で全人格的」な批評眼がさらに訓練されているのである。大本営=ジャニーズ事務所の権威を信じ、そこから発信される情報だけで満足するほど純粋、単純ではない。
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とはいえ、「等身大で全人格的」な評価をするのは、かなり難しいことでもある。人や世間や社会というものに対する深く幅広い理解、そして鋭い観察と感受性が必要だからだ。はっきりいってしまえば、その能力には個人差がはっきりとあって、誰にでもできることではない。
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しかしそれでも、自分も上から目線で「等身大で全人格的」な評価を下したいという人間は多い。というか、どう考えればいいのか、彼らなりに答えを求めているのである。で、彼らは人やモノゴトに対してそこそこ定まりかけはじめた評価にのっかっていく。流行が先端のごく一部の人々から大衆化していくようなものである。単純に罵詈雑言、叩く楽しさもある。炎上である。
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で、炎上からしばらく経つと、大衆化を担った人々は自然に散り散りになり、なにがあってもオウムのように同じ言葉を繰り返すこだまのような評価だけが、いつまでもくすぶりつつ残る。好例をひとつご紹介しよう。『アサ芸プラス』(2016年8月10日配信 である)。タイトルは《もはやキモオヤジレベル?矢口真里の艶気カミングアウトに「要らない情報!」》である。やれやれ。
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《本来なら大コーフンのサービスをしたはずなのに、矢口真里が言うと黒焦げ炎上だ。
8月2日に放送されたインターネット配信の生放送バラエティ番組「矢口真里の火曜TheNIGHT」(AbemaTV)でのこと。直前の番組で、唇の色と胸の輪っかの色が一緒というテーマについて検証していたことにガッツリ興味を示していた矢口は、突然自身の服の中を突然覗きはじめ、「私はね、唇の色とは違うけど、ちょっと濃いベージュです」と自発的にカミングアウト。生放送での思いがけない展開にスタジオは笑いに包まれたが、対照的にネット上では「まったくもって要らない情報」「オエエエ!」「もう何でもやるんだなこの女」「次はアレの色かよ」といったあきれコメントが殺到し、袋叩き状態となっている。
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「要らない情報という言葉がピッタリですね。本当にそうなのかも確認できませんし、矢口をそういう対象で見ている男性ファンはいまや皆無に近い。むしろ彼女の艶気ネタはすべて本人が起こした不貞ネタを想起させますから、女性だけでなく、男性でも不快に受け取る人も多い。炎上目的での過剰なサービストークはそろそろやめたほうがいいですね」(女性誌記者)
矢口はモーニング娘。のヒット曲「恋のダンスサイト」で、自身が放っていた“SEXYビーム”の指で丸を作るポーズは「胸の輪っかの大きさと同じ」と自白した際にもみごとに炎上。下ネタを連呼する“キモオヤジ”と同レベルになってきていることを本人はそろそろ自覚したほうがいいかもしれない》
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「胸の輪っかがちょっと濃いベージュ」。おお、たぶん控えめではあるが、いいではないか。矢口真里(33)、モーニング娘。時代からお色気担当だったのである。こんな話は朝飯前なのである。しかも「要らない情報」とはいうが、バラエティ番組から流れてくる情報の90%以上は私にとって「要らない情報」なのである。「要らない情報」をカットしたら番組自体がなくなる。
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そんなことより、こんな番組を観て自分の部屋が場末のスナックみたいに感じられるなら、少々いじましいが、それはそれで幸せなことではないのか? そもそもこれはそういう需要を狙った番組ではないのか? 矢口真里は「下ネタを連呼する“キモオヤジ”」ではない。私の部屋=場末のスナックでは、話の転がし方がうまい美人ママである。おお、オラの胸の輪っかはさつま揚げ色じゃあ。
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で、まあ、こういう、なんのひらめきもない紋切り型のイチャモンは、炎上の最終段階のお決まりパターンである。心に残ったのは「黒焦げ炎上だ」という斬新なフレーズだけである。黒焦げはふつう盛大に燃えたあとにできるものだから矛盾した表現である。あ、そうか。つまりはこれで炎上も最終段階にきているということを表現してみたわけか。
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木村拓哉の人気はなぜ回復しないのだろう? ブログの媒体特性はどう考えればいいのだろう? “炎上”のメカニズムはどんなものだろう? という疑問への回答に、なんとか道筋だけは示せたように思う。テレビの時代を経て迎えたネットの時代は個々が遠く切り離されていながらも「等身大で全人格的」なコミュニケーションの時代なのである。それは電話で、通話だけでいま頭上に広がる空の青さを伝えようとするようなものである。最高度の忍耐と途方もない労力がいる。便利になったようで不便。メンドくさいことである。(了)
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