マキタスポーツ(46)というお笑い芸人、ミュージシャン、俳優、作家、ラジオパーソナリティ(by Wikipedia)がいる。『LITERA』(2016年11月13日配信)に、《ニュースにコメントする芸人たちはなぜ「反権力」になれないのか? マキタスポーツが原因を分析する》というタイトルで紹介されていたので読んでみた。
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なんと、記事に添えられている写真は月亭可朝(78)ではないか。だから私はいまのいままでマキタスポーツという人物が存在すること自体を知らなかったのである。ウソである。それにしてもよく似ている。ここまでよく似ていると趣味嗜好も考え方も似ているのに違いないと疑う。
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78歳になって私の人生もそろそろ幕引き、とかなんとか思っていた矢先に自分そっくりの、そしてずいぶん若いアカの他人が現れて自分と同じようなことをやりはじめたらどんな気分だろうとつい夢想するほど似ている。たいへん僭越至極ではあるけれども、マキタスポーツ、血の繋がりについて月亭可朝本人に確認したことはあるのであろうか? と気になる、そしてとうぜんあるだろうなあ、と自答するくらい似ている。なんというのか、人間の新しい繁殖方法が開発されたのか? というくらい似ている。
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で、その《ニュースにコメントする芸人たちはなぜ「反権力」になれないのか? マキタスポーツが原因を分析する》である。読むと『LITERA』は『TV Bros.』(2016年10月8日号)でのマキタスポーツの発言を受けて書いているのであった。その中心部分を抜粋しよう。
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ここでマキタスポーツは縦社会でのお笑いのあり方について語っている。平たくいうと、コントなどつくりものとして設定されている世界では“上”を茶化したりバカにしたりして笑い者にすることができる。“上”は重宝なネタ元である。しかし、テレビのバラエティなどでお笑い芸人が見せているのは現実のドキュメンタリー的なものであり、「自分の身の回りにある『身内』をまんまとトレースした『社会』だったり」する。であるから、そこには「上」「目上」に歯向かってはいけないという「道徳」がある、ということである。
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あらら、もう中身を紹介してしまったので抜粋を載せなくてもよくなってしまったのである。しかしまあついでなので、マキタスポーツという人がどんな二枚目の文章を書くかご覧いただこう。文中“揶揄い”は“からかい”と読む。
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《日本は縦社会です。人間関係も縦割りな序列的構図が基本。それを基に“揶揄い”も生まれます。例えば先輩や、上司、コミュニティ内のリーダー的人格は権威なので、笑いを生むに当たっては資源たり得るのですが、それはフィクショナルなコント内でのこと。ほとんどの場合、お笑いは、テレビのバラエティなどでドキュメンタリー的に見せられているわけで、お笑い芸人がテレビを通して見せているものは、自分の身の回りにある「身内」をまんまとトレースした「社会」だったりします。結果、例えば、若手が、ビートたけしさんの頭をはたくと、どういうわけだか他人事なのに“ゾッとする”ということが起こる。なので、視聴者は、社会の中で、個の主張としての笑いより、業界の生態関係図に惹かれながら、笑い的な何かを見出しています。日本のお笑いには目上には歯向かってはいけないという「道徳」が存在するのでした。(中略)視聴者は、お笑い社会が安定的に回っていることで「安心」を見たいのです。これは、政治の世界で言えば、政策よりも政局を見て楽しんでいることと同じです》(「TV Bros.」16年10月8日号)※原文ママ
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二枚目じゃのう。ちびっこ可朝のくせに。で、マキタスポーツは同記事のほかの箇所で「芸人たちは政権風刺を『やれない』のではなく『やらない』のだと分析する」と書かれている。現状ニッポンのテレビ界でのお笑いの状況がよくわかる。
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そして『LITERA』は、そんなようなわけでテレビに出ているお笑い芸人たちに大事なのは「空気を読むこと」であり、情報番組になると「世間の声」を代弁する「優等生」として振る舞い、「だから、『ワイドナショー』の松本人志や『ノンストップ!』の小籔千豊のように、もはや政権与党の公式コメンテーターのごとく振る舞う人間が出てくるのもまったく不思議な流れではない」と論考しているのである。
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締めくくりは、「お笑いやコメディというものは、大衆が権力に対して持ち得る数少ない武器として機能してきた」はずなのだからもっと頑張れ、という感じの、うーん、とてもありきたりになっている。ほんとうか? 情報番組に出てニュースにコメントしている芸人たちは、そこにバラエティのひな壇の「道徳」、ルールをそのまま持ち込んでいるのか?
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そもそも情報番組では社会的な問題に対する発言が求められているのである。であるからそこで「上」「目上」に歯向かってはいけないなどという「道徳」で縛られては、誰もなにも発言できないではないか。自民党議員でも民進党議員でも「上」「目上」であればなに一つ批判できないということになる。テレビ界でのお笑いの状況分析をこういうふうに社会全般にまで拡げて敷衍されてもマキタスポーツはさぞ困るのであろうと思うのである。
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「芸人たちはなぜ「反権力」になれないのか?」というテーマについて芸人のありかた、芸のありかたの分析のなかから回答を見つけようという試みは、まあ、「反権力」がいかにも古くさいのはさておいて、立派なのだけれども、とにかく今回はまったく不発である。どうして「お笑い芸人はすべからく幇間(たいこもち)である」くらいのところからはじめようとしないのであろうか。
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メンドくさいのでさっさと書いてしまおう。「芸人たちはなぜ「反権力」になれないのか?」といわれても、テレビもラジオも新聞もマスコミと名のつくものすべて権力なのである。のうのうと第4の権力だとか自称することさえある。そして権力は互いに手を携えて既得利益を守る。テレビはその象徴的な存在とさえいえる。
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たとえば、「国の放送事業歳出費は2百数十億円に及ぶのに、テレビ局が全局で38億円(2007年度)しか払わず、約7倍の格差がある」(Wikipedia)のである。少し古いけれども。新規参入も現実的に不可能である。で、そのテレビの電波を停止させる権限は総務省が握っているのである。こうした権力の野合のまっただなかで権力批判など許されるはずがないではないか。
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であるから本気で権力批判をしたいのであれば、とりあえずテレビの外でやるしかないのである。テレビを捨てて。テレビに出ている段階で、とりあえずその芸人は権力に尻尾を振っている、と見なさなければならないのである。なんだか懐かしいのう。レオナルド熊(享年59)を数十倍強力にしたような芸人が現れないかぎり。
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であるから問題は、まず批評精神を持ったお笑い芸人がいるのかいないのか、そしてその批評精神を持ったお笑い芸人にテレビを捨ててもやり抜く勇気があるのかに絞られているのである。それだけのことである。もちろん観客の側にもそういう芸人を発見し、応援していく努力が必要だけれども。
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「ボインは赤ちゃんが吸うためにあるんやで〜 お父ちゃんのもんと違うのんやで〜
ボインというのはどこの国の言葉〜 うれし恥ずかし昭和の日本語〜
おっきいのんがボインなら ちっちゃいのんはコインやで〜 もっとちっちゃいのんはナインやで〜」
(月亭可朝『嘆きのボイン』)。可朝ったら、しょーもな。(了)
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