2016年5月13日金曜日
ジャニー喜多川の旧友、蜷川幸雄、逝去。ご冥福を祈る
5月12日、蜷川幸雄さんが亡くなられました。最初に訃報を知ったのは夜の8時前で、少し酒を飲んでいて、そーかー、こちらがベッキーとサンミュージックに腹を立ててせせこましい原稿を書いているときに亡くなったのかー、とぼんやりしました。享年80歳でした。
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ひと区切りつけてパソコンを開くと、比較的若い俳優たちからの追悼の言葉がいっぱいでした。寺山修司(享年47)が亡くなったときには、もちろん惜しむ声は大きかったですけれども、こんな華やかさはありませんでした。
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とくにジャニーズ事務所所属タレントが目立っています。午後11時過ぎには『デイリースポーツ』が《ジャニー社長、タレントが蜷川氏を追悼 お悔やみ全文》として、まとめをアップしたほどです。見るとジャニーを筆頭に15人のコメントが並んでいます。タレントのトップは錦織一清(50)で最後が上田竜也(32)。こんなときにも事務所内の序列通りです。
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蜷川幸雄がジャニーズ所属タレントをよく起用していたことには、いまも少しひっかかりがあります。商業演劇が生き抜いていくための、ひとつの手管のような気がするからです。そういう思いが生まれるのには、蜷川幸雄さんの舞台を経験した彼らが、それからあと、結局はジャニーズの枠の中でしか仕事をしていないように見えることが関係していると思います。
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世界のニナガワが面倒を見たはずの若手たちはどこへいったのでしょう? 蜷川幸雄さんはそれをどう思っていたのでしょう? 寺山修司の思い出のまわりには、役者ではありませんが、四谷シモンやJ・A・シーザー、横尾忠則、大島渚などの煌びやかな才能が輝いているというのに。
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前述、『デイリースポーツ』に掲載されたジャニー喜多川の追悼コメントです。
「昭和と平成を見事につなげた人が、東京オリンピックを待たずにさよならなんてずるいよ」
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昭和と平成と東京オリンピック。『スポニチアネックス』(2016年5月13日配信)によると、ジャニー喜多川は蜷川幸雄とは約50年にもわたる親交があったのだそうです。で、『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』(NHKラジオ第1、2015年1月1日から不定期放送)には初回ゲストとして招かれ、これでラジオ番組に初出演しています。
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そういう縁もあって、蜷川幸雄は2020年の東京五輪開会式の演出をジャニー喜多川と一緒にやりたいと話していたそうなのです。「東京オリンピック」はこれでわかりました。いちおう。
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「昭和と平成」は、わかります。これは、いいかえれば、前衛演劇と商業演劇です。ですから「昭和と平成を見事につなげた人」とは「前衛演劇と商業演劇を見事につなげた人」という意味です。
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ふうん。それにしても約50年もの親交ですか。50年前といえば1966年。蜷川幸雄が「劇団青俳」を退団し、蟹江敬三、石橋蓮司などと「現代人劇場」を結成する前年です。その後、蜷川幸雄は「劇結社 櫻社」を経て1974年に商業演劇に転向します。
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一方、ジャニー喜多川はジャニーズ事務所を創立して2年目です。そしてこの年まで進駐軍の軍事援助顧問団での仕事をかけもっていました。ちなみにジャニーズ事務所は“アイドルの事務所”ではなく“ミュージカル俳優”の事務所なのだそうです(「ジャニーズ百科事典」)。
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蜷川幸雄がジャニーズ事務所の所属タレントを数多く起用したのは、まずはこうしたジャニー喜多川の理解があったからです。ほかの劇団ではほとんどまったく不可能なことなわけですから、出演させるだけで蜷川幸雄にとっては大きな助けになったはずです。
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演劇、舞台の仕事は練習にたいへん多くの時間を費やします。その割にギャラはよくありません。ですから売れっ子のタレントやその所属事務所からは歓迎されません。たとえば、よく名前の知られた若手俳優が今度はじめての芝居に出る、という話になると、ああ、少し仕事が落ち着いてきたのだな、と受け取られるのがふつうです。
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ジャニーズ事務所のタレントが蜷川幸雄の芝居に出演するようになったのは、蜷川幸雄のほうからジャニー喜多川に相談をもちかけたのがきっかけで、そのときの芝居が『盲導犬』(1989)です。出演したのは木村拓哉(43)。で、実はジャニー、このときもう1人、候補を連れて行っていて、それが中居正広(43)だったというお話まであります。
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一流の売れっ子だった木村拓哉を蜷川芝居に送り込んだことには、ジャニー喜多川の強い意志を感じます。舞台芸術にかける情熱なのでしょう。ああ見えて、ただのキレイ男子好きのオジジでもないわけです。蜷川幸雄と一緒に東京オリンピック開会式の演出を手がけることは、ジャニーにとってほんとうに大きな夢だったのでしょう。
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蜷川幸雄という演出家は、作品とともにいつも同時代を生きていたので、その評価はもう少し時間が経ってからにしたいと思います。
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中村梅之助、佐藤初女、松原正輝、はかま満緒、津島祐子、合田佐和子、ハヤブサ、多胡輝、福居良、江戸家猫八、望月三起也、秋山ちえ子、大平透、戸川昌子、冨田勲、……。今年、2016年に亡くなった方々です。ランダムに書き出しただけなので失念してしまっている方もいらっしゃると思います。申しわけありません。
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外国の方々ですと、プリンス、ヨハン・クライフ、モーリス・ホワイト、グレン・フライ、デビッド・ボウイ、ピエール・ブーレーズ、ミッシェル・デルペッシュ、マービン・ミンスキー、ウンベルト・エーコ、ジョージ・ケネディ、ジョージ・マーティン、キース・エマーソン、パティ・デューク、ガトー・バルビエリ、ガイ・ハミルトン、マール・ハガード、ルゴット・ホーネッカー……。
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どんどん人が死んでいきます。いまや「多死社会」という言葉まであります。それは「高齢化社会の次に訪れるであろうと想定されている社会の形態」なのだそうです。あたりまえのなの話ですが、「 想定される多死社会という社会形態」といわれると、いささか薄ら寒い感じがします。
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「多死社会」をもう少し詳しくいうと、「高齢者が増加し、死亡者数が非常に多くなり、人口が少なくなっていく社会」なのだそうです。とりあえず、日本は2012年頃から「多死社会」に突入していて、2040年ごろまでその状態が続くといわれています。
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もっと明確な「多死社会」の定義はないものか、と探していましたら「人口減少社会」という言葉が出てきました。そうそう、むかしからありましたよ「人口減少社会」。
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で、総務相統計局は「人口減少社会」について、2012年1月の時点で「2011年が『人口が継続して減少する社会の始まりの年』といえそうだ」としてるのです。つまり「多死社会」とは、ただ「人口減少社会」を反転させた呼び方みたいなものです。なーんだ。じゃ、ベビーブーマーの臨終期っていってもいい?
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うむ。しかし「人口減少社会」というとたださびれていく落ちぶれ感が漂いますが、「多死社会」というと、なんとなく「死」という資源がいっぱいある、ような妙な気分にさせてくれます。私だけでしょうか? こんなの。
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いやいや本当のところは、「多死社会」というのは、ベビーブーマーが最後期を迎えたというだけではなくて、情報社会になって“有名人”が増えたことや、報道が密になったことなども影響しているのだと思います。なので、実際の死亡者数の増加よりも、「死」のイメージのほうが遥かに多く増殖しているわけです。いたるところ「死」だらけ。
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ああ、そういえば先月、4月19日、中国の老舗食品メーカーの上海冠生園食品前会長の翁マオ(ウェン・マオ)が、旅行先の山西省の観光地でサルが投げた石が頭にあたり、間もなく死亡したのだそうです。……こうして「死」は私たちのまわりでどんどん増え続けているのです。
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いやいや、実際にも街を歩けばいつのまにか小型の斎場が増えていますし、大都市部では、火葬場がフル稼働しても追いつかない状態が続いています。骨上げが一部だけに簡素化されていて、全部拾おうとすると延長料金を取られるという話を私も聞かされたことがあります。
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さらに日取りなどを選んでいると、実際に荼毘に付されるまで1週間待ちという場合もめずらしくなく、そうした故人と遺族のためのホテルも、たしか大阪に開業しています。団塊の世代がまたまた新しいマーケットを開拓しているわけです。ものいわぬ骸となってなお、日本社会を牽引しているのです。ありがたいことです。
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蜷川幸雄さんだけではなくて、そして「日本死ね」などといわれなくても、どんどんどんどん雪崩のように死んでいくのです。2015年の死亡者数推計値は130万人です(厚生労働省)。毎日毎日3500人ずつ死んだ計算です。
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これが2030年には161万人になる見込みです(国立社会保障・人口問題研究所の『日本の将来推計人口〈平成24年1月推計〉』)。毎日毎日4400人です。毎分3人。カップ麺を待っているあいだに9人。般若心経を唱えているあいだにもだいたい9人。
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そんなこんなで私にも「見えないお友だち」がずいぶん増えました。こんなとき、あの人ならどうするだろう? アイツなら何というだろう? とついアタマに浮かぶ故人のことを、最近、私はこう呼ぶようになりました。ただの独り言の相手ではありません。
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ああ、でも、なぜ死んだ人だけが、しかもそうとう時間が経った人たちばかりが「見えないお友だち」になって浮かんでくるのでしょう? やっぱり人間嫌いなのでしょうか? 自分のことは大好きなのに。蜷川幸雄さんのご冥福をお祈りします。(了)
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