2016年5月7日土曜日

さんまの老け隠し。「〜お笑い向上委員会」はこうして楽しむ





“トークという戦場に、命がけで臨む者がいる。殺るか殺られるか。闘いを制してきた屈強な男たちが今宵また、一組の芸人を向上させるために立ち上がる……”。『さんまのお笑い向上委員会』(フジテレビ)のオープニングの口上である。



口上からも察せられるように、この番組ではギリギリの激しいやりとりが飛び交う。おもしろーい!! という人もいれば、じぇーんじぇん笑えない!! という人もいる。なにしろ「このドブ芸人!!」「誰がドブ芸人ですか!!」「ドブじゃ!! ドブじゃ!!」という具合である。



しかもここでは、自分で発言の機会をたぐり寄せなければ、出番はほぼ回ってこない。なので、ひな壇レギュラー10人のうち、いつも最低2、3人はなにごとか喚いている。お笑いのバトルロイヤルである。これに横入りのボケやギャグが加わる。カオスである。そうそう、ネプチューンの堀内健(46)が唯一なじんでいる番組といえばぴったりするかもしれない。



ひな壇とさんま向上長(60)とが盛り上がって、ゲスト芸人がいつまで経っても招じ入れられないこともある。というか、すでにそれは半ばお約束になっている。ほかにお約束には、「別にムリしてやらんでもええねんで」「でもほんとはあかんねんで」というのもある。これも番組の性格をよく表しているように思える。頼んでやってもらう必要はない、替わりはいくらでもいる、という競争原理である。



で、そうした我れ先の争いや淘汰といったものを露骨に見せられることに眉をしかめるタイプの人には、じぇーんじぇん笑えない!! 番組なのだろう。私は笑っている。結局、声の大きな者、立ち回りの派手な者が注目を集めるという点で、それ自体たいへんテレビ的な番組ともいえる。



 

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ネットの、一人ひとりは弱々しいかすかな声が集まって羽音のように唸っている世界から見ると、『さんまのお笑い向上委員会』は暴力的なほどにノイジーな外世界である。爆笑問題の太田光(50)など、いつもクビから頭部全体に青筋を立ててがなりたてている。まあ、お笑いとテレビがくっつけばこうなるのは自然のなりゆきだろう。



しかし、もちろん静かなお笑いというものもあって、たとえば落語や漫談、スタンダップコメディなどがその範疇に入る。いわゆるピン芸。しかしいまやテレビの世界ではほとんど顧みられることがない。



確認しておくが、今回この記事でいう“笑い”とは、あくまでも他人の行動に対する“笑い”であって、うれしいときや楽しいときの“笑い”ではない。たとえば可愛い子犬やBABYMETALを見たときに自然に浮かんでくる“笑い”は含まれていない。そして他人の行動に対する“笑い”を意図的に引き出そうとするのが、エンタテイメントとしての“お笑い”である。



なぜわざわざ「静かなお笑いというものもある」というようなことを書くかというと、“お笑い向上委員会”の“向上”とは、お笑いをどこへどう向上させようとしているのか? と考え、それよりもまず、お笑いにとって“向上”とはなにか? と考えようとしたらそこに行き着いたのである。ヒマである。



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冗談やギャグは言葉をつかってするものだから、抽象概念の操作である。そのほかは、たとえば滑ったり転んだり、叩いたりなど、行動のちょっとした逸脱によっている。だから“お笑いの向上”といえば、ふつうは抽象概念の操作をもっと高度に、巧みにすることだ、と考えるだろう。



そうすると、『さんまのお笑い向上委員会』のようなお笑いバラエティ番組は、あまり向いていないのである。連想、想像というものが働くスキマがない。というか、その連想、想像の到達スピードを競っているところがある。どこまでいくか、ではなく。



そんなようなことで、“お笑い”が次の段階にいくには、とりあえずはピンで落ち着いて静かに語ってくれるもののほうがいいような気がする。徐々にまたスピードは上がるのだろうが、ここでいったんスピードを落とせるかどうか、である。まあネット向けである。



高度で巧みな概念操作の笑い。うむ。思いつきで書いてはみたけれども難しい。たとえば「矢口真里、不貞腐れる」とか「ひんこんは食べものっぽいが違う」みたいなことかなあ。ああ、まだダメだ。しかもこれは文字で読まなければわからない。



 

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ともかく、『さんまのお笑い向上委員会』は、この記事の冒頭にご紹介した口上にあるように「トークという戦場」である。勝ち抜かなければならぬ、勝者にならねばならぬ、のである。



しかしこれまた、お笑いとはそういう上向きの、向日性のベクトルに乗っかるものばかりではないと思うのである。ただひたすらどんどん暗ーくなっていくお笑いもあるはずだ。「いま自宅の屋根の上をハゲタカが旋回している、……とまった」とか、「農試公園に行くには、札沼(さっしょう)線を下りて車道を歩く」とか。



あまり例えがよくないので恐縮である。ただ『さんまのお笑い向上委員会』で向上させられない“お笑い”がある、ということをいいたかったのである。もちろん“お笑い”だけではなく、“笑い”には、いいも悪いも、上等下等もなく、ただおもしろいかおもしろくないか、だけである。



おもしろくないお笑いとは語義矛盾であって、そんなものはこの世のなかに存在してはいけないのである。私がこの番組のひな壇レギュラーのなかでまったく受け容れられない「ずん」の飯尾和樹(47)と、やす(46)の2人は、ほんとうに不要である。おお、「トークという戦場」とはこういうことなのか。



しかしそれにしても、直立しているやすの足元から飯尾和樹が仰向けに寝転がって「日時計!」などといわれても、ゲンナリするだけである。40代後半の男2人がしたり顔でやることか? そんな2人が浅井企画所属といわれてナルホドである。萩本欽一(74)である。どっぷり昭和である。いまの感覚ではない。



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レギュラーのなかで実にトークが巧みだと感心させるのは今田耕司(50)だ。もしさんまがいなければいまごろはバラエティのトップに立っていただろう。対してその今田耕司とほぼ交代で番組内に同様の位置を与えられている宮迫博之(46)はまったくつまらない。ジジくさく、かつ所帯じみているのである。そういえばみんなジジイばっかりだが。



ギャグで感心したのは中川家の剛(45)による、さんまのしぐさの真似である。あまりにもせっかちでせせこましく、しかも傍若無人な感じがよく出ている。物真似、模写が批評行為であることを久しぶりに思い出させてくれた。



向上長の明石家さんまについても書いておこう。明石家さんまには、この『さんまのお笑い向上委員会』のように、1対多数のかけあいで進行するトーク番組が多い。かつては『恋のから騒ぎ』(日本テレビ)があり、いまでも『踊る! さんま御殿!!』(日本テレビ)がある。回転が早くて達者な明石家さんまならではのバラエティである。



そんなさんまにしても、この『さんまのお笑い向上委員会』を仕切るのはたいへんだろうと思われるかもしれない。しかし実際はそうではないと思う。相手の言葉や行動を手がかりにして話を転がしていくさんまにしてみれば、相手の数が多いほどツッコミどころが増えてやりやすいはずである。



実際、それとは反対に1対1のトーク番組である『さんまのまんま』(関西テレビ)では、「ほえ〜〜〜」とか「はえ〜〜」とか、ムダな間が空くことが多くなっている。そうした年齢による衰えを隠すにも『さんまのお笑い向上委員会』は恰好の隠れ蓑になっているのだと思う。



なにしろ出演している芸人たちにしてみれば、さんまは大先輩でありMCであり、“お笑いの怪獣”なのだ。逆えるはずがない。しかも撮れ高が十分になれば「クランクアップ」の手描きフィリップが画面にも映される。締めくくりを考える必要もない。体力は使うが楽しい仕事だろうと思う。



 

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最後に、正直にいえば、私がこの番組で最も笑ったのは、ハリウッドザコシショウ(42)が両手を大の字に広げて反り返り、椅子に座っている堀内健にそのままアタックし、しなだれるようにズルズルと滑り落ちたときである。そのあとでほかの芸人に対しても同じことをやっていたから、すでに名前のあるギャグなのかもしれない。



プロレス技のフライングボディプレスを縦にしたような感じのこのギャグは、ただただその姿形がおかしいのである。また裸芸人かー、と最初は嫌がったのだが、ハリウッドザコシショウに関しては、このギャグだけで存在価値を認めてしまうのである。



ハリウッドザコシショウは、ただただその姿形がおかしいのである。ふやけたカエルのような、あるいはたびたびエイリアンの死体と間違えられてニュースになる、なにかの動物の胎児のような姿がおかしいのである。



このときのハリウッドザコシショウは、なにを真似ているのでもない。しかしふつうの人でもない。つまり何者でもない。くどい書き方をして申しわけない。とにかくこの空白、無意味に向かって突進していくハリウッドザコシショウの姿が、私を爆笑させるのである。



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人が人以外の恰好をして笑わせるといえばやっぱり猿の物真似のマルセ太郎(享年67)を思い出す。しかしそこには「猿」という意味があり、その「猿」に託した人の思いだの、人生だのがある。過剰である。笑わそうとしている部分でも、私はちっとも笑えなかった。



実は、私にとっての笑い、お笑いとは、日常ではあまりよいものとして扱われることのない感情の表出なのではないか、と疑っているのである。蔑み、憐れみ、卑しみの類。であるから、私はなんだかんだいいながら『さんまのお笑い向上委員会』を見ているのかもしれない。



繰り返してお断りしておくけれども、今回この記事でいう“笑い”とは、あくまでも他人の行動に対する“笑い”であって、うれしいときや楽しいときの“笑い”ではない。



みんなが笑顔で暮らせますように、などというときの“笑い”は、もちろん、うれしいときや楽しいときの“笑い”だ。しかし、もしそのときの“笑い”が、みんなが蔑み、憐れみ、卑しみの感情で笑ったものだったしたら、とつい考えるのである。それをくだらないジョークだといって一笑に付すこともできない不気味さもまた、いまの時代には確かにあると思うのだ。突然で恐縮だが。(了)




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