テレビでは旅もの散策ものが大流行だ。それ以前にも旅番組はもちろんあったが、街歩き的な要素を大きく取り入れたレギュラー番組としては、日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」(1992〜)が最初だったように思う。それから23年、いまや有吉弘行(40)までが正直に散歩する時代である。低予算で手っ取り早くつくれて、そこそこの視聴率が見込めるのだろう。
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私も学生時代から街歩きが好きでよく歩く。テレビ番組のように道すがらの店を覗き込んだりは滅多にしない。ただひたすらテクテク、ダラダラ歩く。そしてゆっくり変っていく景色や人を見ている。距離で4kmから20km。だから時間にすると1時間から5時間くらいになる。
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ここ最近、歩いていて気づいた街の変化が2つある。ひとつは、これは主に中心部の繁華街とその界隈でだが、明らかに定年後まもないとおぼしきオジサンたちが歩く姿を頻繁に見るようになったこと。一日中家にいることにも馴れていないし、健康管理のためには散歩がいちばんだということなのだろう。
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彼らは必ず単独で、ブラブラどころかあまり脇見もしない。狭い路地や小路は選ばず、表通りをまっすぐ早足で歩く。背中にはリュック、帽子を被ってウエストポーチを着けている。あんまり楽しくなさそうな歩き方である。まあ、たぶんノルマだとか目標だとかを決めて歩いているのだろう。
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そんな彼らの頭のなかには「ピンピンコロリ」の理想がきっとある。死ぬまで元気に、人の手を煩わせず過ごしたい。団塊の世代の、ただいま現在の切なる願いである。ベビーブーム、受験戦争、ニューファミリー、とライフステージごとに巨大市場を創出してきた彼らの最後のフロンティアは「終活」である。
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そういえば街中に小さな斎場が増えてきた。家族葬というやつだ。「一式35万円から」なんてガラス戸に書いてある。私はそんな、最期に向かって黙々と歩く彼らの背中を見送りながら、テクテク、ダラダラ歩く。
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もうひとつ気づいた街の変化は、郊外の住宅地に「売家」の看板が急に増えたことだ。1区画に必ず3、4軒はある。空き地もある。看板は出していないが空いている家もあるはずだから、相当な勢いで人が減っていることになる。
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ちようどここの街は、新しく宅地が造成されて住みついた世代から次の世代へ、代替わりの時期にあたっているのだろう。いつ歩いても子どもの姿がほとんどない。とりあえず一度くらいは、どのくらいの窓に明りがともるか確かめに行こうと思うのだが、夜の散歩は景色が見えなくてつまらないので、まだ実現していない。
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数週間前までは人の気配があった住宅に「売家」の看板を見つけるのは淋しい。いつのまにか取り壊されてしまっているのに気づくのは、もっと淋しい。パタパタと舞台装置をたたむように、3日もあれば更地になっている。
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もっと淋しいというのは、建物が取り壊されてしまうと、すぐにそこになにがどんなふうに建っていたかを思い出せなくなるからだ。これは本当に、自分の記憶力が不安になるくらい、不思議と速やかに思い出せなくなる。記憶から消える。
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「文学はつねに現実に敗北する。しかし過去と未来においてはそうでもない」というようなことを三島由紀夫がどこかに書いていたが、現実は記憶の過去までも簡単に消してしまうのである。最期に向かう団塊のオジサンたちの後ろ姿同様、なんと儚く、恐ろしいことだろう。 (了)
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