以前どこかで「粘膜商売は体にこたえる」という話を聞いた。「粘膜商売」というのは、モノを食う仕事と性を売る仕事のことだ。いずれも本能の部分だから、それを人並み以上に酷使、強制するのは体の深い部分をひどく疲れさせるのだろうと想像はつく。ところが最近、粘膜の強いやつと弱いやつがいるような気がしてきた。擦りむけないとかいう話ではない。
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漫才コンビ「麒麟」の田村裕(35)が2007年に発表した自伝『ホームレス中学生』は200万部の大ベストセラーになった。大金が入ってくるぞ、と裕はさっそくレストランで豪華な食事をしたものの、体が受けつけず全部吐き戻してしまったのである。粘膜の弱いやつである。
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この裕の話を引き合いに出して「オレもそうやねん。いくら稼ぐようになっても胃袋はどうしても貧しいままやねん」と語ったのは明石家さんまである。さんちゃんもここでは粘膜弱い系である。ほかは知らぬ。
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味覚は子ども時代につくられる。もちろんそうして食べたもので体がつくられる。そして味覚はたいへんに保守的である。なんでもかんでも口に入れていては命さえ落としかねない。だからどうしても、胃袋はいつまでも「貧しいまま」だし、食べつけないものは受けつけない。人間として、というより生きものとしての自然である。
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それをたとえば飲食業界、とくにメニュー開発に携わる人々などは仕事として食べ続けなければならないのである。健康管理はさぞかしたいへんなことだろうと思う。趣味で食べ歩きなどオレには考えられない。
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あちこちの店のあれがうまいとかこれがまずいとかウンチクを垂れている者のなかには、実際には食べた味などよくわかっていない者が多いはずだ。とくに洋食でいえば1970年代前半までの生れのいうことはあまりアテにならないと思う。日本に外食産業が導入され、洋食が広く大衆化しはじめたのは1970年代からだからだ。日本人の洋食の歴史なんてそんなものなのだ。
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しかしそれれでも年間500軒は食べ歩くというアンジャッシュの渡部建(42、1973年生)のような人間もいる。腹もこわさないらしいから粘膜が強いのだろう。
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「食餌」は最初、空腹を満たすためであり、次に味覚の欲求が出てくる。それからさらにその場の雰囲気の楽しみが加わって「食事」になり、このごろではメニュー、店などに関するさまざまな情報が主役の観さえある。能書きである。食は胃袋から口、食べる場所、そして情報へと順番に外部化している。
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で、渡部建のごとき強い粘膜は、やはり鈍感なのである。鈍感だからつねに刺激を求める。放っておくとやがて珍食奇食の類いにまで到る。そこまで達しないのは、やはり料理の味がわからず、能書きだけを食べているからである。
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味覚は人それぞれで、なかなか変更がきかない。だからただ粘膜の強さにモノをいわせている人間が食べものについて、味について安直に語ることは精神の貧しさをさらけ出す恥ずかしい行いなのである。
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しかも地球的に見れば食料難のこの時代に、あれがうまいこれがまずいとは、なんと感性が鈍いことよとオレは思う。
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武士は食わねど高楊枝again である。食わないことの美学だってあるのだ。渡部建ごときには到底わからないだろうがな。ま、希ちゃんと合い鍵デートでもしていればいいのである。もうひとつの「粘膜商売」については、きっと悲しくなるからやめておく。 (了)





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