2015年6月24日水曜日

心の病にもいろいろありまして……






自宅で机に向かう仕事をしている。性格に難があるので友だちはいない。社会活動に参加する余裕もない。というわけで非常に小さな人間関係のなかで暮らしている。こんな私でも周囲を見回せば、心の病を抱えている人間が5人いる。



5人の内訳は鬱2人、躁1人、双極性障害1人(以上男性)、そしてなんだかよくわからない1人(女性)である。自分もほんとうはどこか病んでいるのかもしれないが、指摘を受けたことも自覚もないので、とりあえず棚に上げておく。



鬱の2人と双極性障害の1人は医師の診断を受け、薬を飲むようになってずいぶん長い。鬱の2人はそれからのほとんどの期間、無職かアルバイト作業員だ。というかなんとかアルバイトには就くのだが、やはり鬱からくる体調不良もあって長続きしない。



気分が滅入りひどくだるく、朝がきてもどうしても起きられない。心配したアルバイト先から電話がかかってきても、それにも応じられない。結果、無断欠勤とみなされて解雇される。このパターンの繰り返しである。本人は真面目で、しかもやる気だってある。広く世間にこの部分の理解が進めばと思う。2人とも独身である。



それに比して双極性障害の1人は、我々の前では元気がある。結婚もし、いまは独立して設計士の仕事を続けている。しかしやはり山あり谷ありである。「谷」は、傍からみていると躁の絶頂期にくる。なにしろ自信満々、疲れも知らず聞く耳もたず、すべからく強引に物事を押し通してしまう。



彼がある設計会社の支社長をしていたとき、そんなようすを不安視した本社から呼び出しを受けたことがある。そのとき、なんと彼は「アピアランスで圧倒してやるのだ」などと大見得を切って純白のスーツ&真っ赤なネクタイ(結婚式用のレンタル)で乗り込んだのである。


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本社では、そんなおめでたい彼の姿を見るなり「ま、とりあえず食事でもしましようか」と慰撫するようにレストランに誘い、特別になんの話をするでもなく、そのままそこで帰されたという。



周囲も、またいかに薄情な私でも気が気ではないのだが、彼としては「作戦大成功」なのである。鼻息荒くご帰還になられたのである。で、半年ほどして気分が落ち込んで鬱に入ってきた、ちょうどそのタイミングを見計らったように、異動命令が出たのである。



彼としてはどん底×2である。そのほかにも、躁状態でしでかしたさまざまな武勇伝の記憶が、いまや彼を打ちのめしにくる。たまったものではないと思う。



しかし、そんな彼には申し訳ないが、この鬱の状態に入れば逆になにか大ごとをしでかす心配はない。傍の者にしてみれば勝手ながらこれが「山」なのである。躁のときに振り回されてさんざん迷惑をこうむったささやかな意趣返しみたいなものもこめて、私はそう思ってしまうのである。



4人目、躁の1人は双極性障害の彼のように人を振り回すこともなく、いつも上機嫌である。すこぶる気前もいい。ふだんは付き合いのない親戚のオバサンなんかにも、理由なくポンと5万円くらいの小遣いを平気で渡したりする。



だから人気があるらしい。しかし平凡なサラリーマンなのでそんなに裕福というわけではない。家族にしてみれば相当たいへんなことだと思う。いくら私でも小遣いくれ、とはいえない。


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で、最後のよくわからない1人の女性。私の姉である。彼女が長女で次に生まれた私が長男、下に妹が1人いる。私にとって姉は、なにがというわけではないが、ずっとなにか嫌な感じの存在だった。



それを意識したのは私が高校に入ったあたりで、4歳違いの姉はそのときすでに働いていた。勉強が嫌だといって進学しなかったのである。とりあえず進学したってそんなに勉強なんかしなくていいのに、と私は不思議がったものだ。



「嫌な感じ」に実態があると確信したのは、自分なりに小さな出来事の積み重なりを整理した結果だ。あまり詳しくはムリだが、二、三さわりだけを書いておこう。



子どものころ夜中に私がわがままをいって母に果物を買いに行かせ、それを自分は分け与えてもらえなかったという、現実にはありえない姉の記憶がある。成長してからは、自分が用意するからと実家に昼食に呼んでおいて、当日、顔をあわせて挨拶をしたものの、そのまま出かけて帰ってこないことが何度かあった。電話で話していると辻褄があわなくなり、突然切ってしまうこともある。



これだけではよく理解してもらえないかもしれないが、姉には後になって自分でつくった記憶がいくつもあり、また直近の出来事(たとえば昼食の約束)でも完全に忘れてしまうことがある。



つけ加えれば、亡くなって約5年になる父への思いが徐々に高まり、私から見るとすで崇拝の域にまで達しているように見える。「父は私を可愛がって、よくいろいろなところへ連れていってくれた」などと親戚などには話しているらしいが、忙しい父が子どもを連れて出歩くことなど、妹と私も含め、ほんとうにまったくなかったのである。これもつくられた記憶である。


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で、つまり姉は自分が長女であったために、長男である私に較べて冷遇されたり、我慢を強いられたりしたと感じているのである。しかも私たちの両親は2人とも情が濃いほうではないので、子ども時代からあまりかまってもらえない、認めてもらえないという淋しさがあったことも想像できる。私も両親から直接ほめてもらったことは、いままでに1度もない。ほめられるようなことはなにひとつしていないが。



姉の、子ども時代のそんな“不遇”への恨みつらみへの復讐の刃は私に向けられているのである。私は無意識的に攻撃されていたわけである。嫌な感じの正体だ。



こうなると、食事に誘っておいて姿をくらますのは、あとになってつくりあげた記憶、「夜中の果物事件」への報復だと考えられなくもなく、そうすると私は非常に怖いのである。本人が無意識というのがことさら怖いのである。



しかも父が亡くなり母もめっきり老いてきた最近では、姉は無意識の攻撃にプラスして明確に悪意をもって私を陥れようとするようにもなってきた。いまは別の都市に住んでいる妹の、私に対する態度が急変したのは昨年の夏あたりである。私に関する情報は、妹へは私を除けば姉からしか入りようがない。



そして小さな事件が起こった。母が今年の冬に軽い脳梗塞を起こして倒れたのである。母と実家で2人暮らしの姉が運よく出勤前で電話をしてきてくれたものの、少々異様なことにうわごとのように「助けて、助けて」と何度も繰り返すだけなのだ。



これはと思い、とにかくすぐに救急車を呼ぶようにといって駆けつけたのだが、10分後くらいに到着したときにはまだ救急車を呼んでおらず、姉はただ部屋のなかをウロウロと歩き回っていたのである。




救急病院のロビーで姉は何度も「私がいてよかった」「私が後ろにいて支えられたからお母さんは頭を打たなくてよかった」と繰り返した。そのとき、ああ、認めてもらいたいのだな、とわかった。しかし、まだ母の応急の診断が下る前であり、いわれたとおり救急車をすぐに呼ばなかったことに腹を立ててもいたので、私は聞かないふりをしていた。



まだ先がある。幸いに母の脳梗塞は軽く、2週間程度の入院で回復した。その退院の前日、医師から退院許可が出たことを姉にメールしたところ、勤務中の時間帯であるにもかかわらず、折り返しの電話がきて「まだ都合が悪い」というのである。



都合が悪いといわれても、母が今日か明日かと待ち望んでいる退院であるし、おおよその日程はすでに告知されて、姉にも伝えてあったのである。おかしいと思いながらその旨を途中まで話しかけたとき姉はいきなり「わかったわかったわかった」と叫んで一方的に電話を切ったのである。たぶんまた無意識的に忘れてしまっていたのである。



その日、病院から自宅に戻り、またまたの腹立ちがひと段落してぼうっとしていたとき、私は思いついたのである。姉は自信がないのだ。徹底的に、救急車を呼ぶことすら躊躇するほど自分に自信がないのである。ふだんは強気でどちらかといえば人あたりもきついほうなので気づかなかったのだが、対外的な強気は自信のなさの裏返しであったのある。



高校卒業時に進学を選ばなかったのも入学試験が怖かったからだと思えば腑に落ちる。そういえば勤続20数年になるいまの職場でも登用試験を受けていないので、身分上は臨時職員のままで一応の所長代理である。姉が相当の年配になってもいまだ独身でいるのもそういうわけだろう。



おそらくは、とくに父親に認めてもらいたいばかりに失敗を極端に恐れて生きてきたのだろうと思う。私が長女のたいへんさみたいなことにさりげなく話を向けようとすると強く拒絶するのにも、本心を探られる気まずさとともに、自信のなさが影響しているのだ。



というわけで、いまのところ私には姉が無意識的に、あるいは意図的に仕掛けてくる嫌がらせへの根本的な対策がない。嫌がらせといってもたかが知れているし、その理由も把握できているのでいまはまだ気分的な余裕がある。しかしいつか自分を押さえられなくなるときがくるかもしれない。というか、すでにその気分はある。残酷な結末にならぬよう、距離を置いていようと思う。 (了)




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